さらに、それより十二年の後、南金丸にて畑を田にし、さらに、北金丸にては水車を新設するなどして下流の水不足をきたし、ここでも奉行所へ訴訟を起し示談解決をした。
済口(すみくち)(事件解決のこと)
(一) 差上申済口証文之事
一、小林孫四郎御代官所外四給知行所野州那須郡湯津上村并狭原村、狐嶋村より、大関伊予守様御領分同国同郡南金丸村八幡宮神職小泉大炊、并同国同村名主斧右衛門外拾壱人エ相掛リ、右村々エ相掛リ候用水路之内エ右神職大炊用水堰を屋敷之内エ新規水車取立用水引込候ニ付、洩水多ク渇水仕り難儀仕候段、当五月七日小幡山城守様エ奉願上候所、同十三日御評定所エ被召出熟談被仰付候ニ付、給々御役人中御立合之上異見差加熟談内済仕候、訳ハ新規取立候水車之儀、此暮より当七月迄相休ミ当年斗り、八月より十月迄三ケ月之間立置相用、十一月ニ至リ右水車相潰し、以来南金丸村内御田地エ引取候用水之外、於堀筋何ニテも南金丸村より差障り不申筈、双方得心之上内済仕リ、偏ニ御威光ト難有奉存候、然ル上ハ自今右ニ付双方より御訴訟ケ間敷儀申上間敷候
為後証双方并江戸宿連判済口一札奉差上候所仍而如件
右之通熟談内済仕御評定所エ済口証文差上候ニ付右写為後証為取替置申候 以上
小林孫四郎御代官所
野州那須郡湯津上村惣代
宝暦十一年巳六月 訴訟方 名主 藤次郎
伊沢播磨守知行所
同国同郡同村
〃 名主 安左衛門
大田原出雲守領分
〃 名主 七郎左衛門
大関伊予守領分
同国同郡南金丸村
八幡宮神職
相手方 小泉大炊
同領
同国同郡同村惣代
名主 斧右衛門
糀町壱丁目
訴訟方宿 万屋太兵衛
神田旅籠町壱丁目
相手宿 上州屋市左右門
(二) 差上申済口証文之事
一、小林孫四郎様、川崎市之進様両御代官支配所野州那須郡湯津上村、狭原村、狐嶋村、外御三給より大関弁吉様御領分同国同郡南金丸村名主又右衛門外拾人同郡北金丸村名主初右衛門外弐名ニ相掛リ、南金丸ニテ此ノ度畑ヲ田ニ返シ、北金丸ニテハ新ニ水車ヲ建テ、下郷村々御田地用水ニ差滞リ、渇水仕リ難儀仕候、当壬三月十二日松平対馬守様へ願上候処、同二十五日御評定所へ両御代官様御手代并ニ御給之御役人中一同被召出、其場所立合見分之上、双方エ利害被仰含、小舟渡村兵蔵、弥右衛門御引合取扱被仰付、依之熟談内済仕候訳左之通り
一、元禄十五年午年用水路及出入、其節取扱ヲ以テ内済仕、南金丸村より水下三ケ村エ取置候書付ニ、北金丸村手洗堀先堀廻し、堀尻を扱人貰水名付掛樋ニテ南金丸村田用水ニ遣年来引取候処、此度右掛樋ヲ相止両金丸村田反別九町六反六畝弐拾四歩、下郷三ケ村之田反別九拾町六反六畝五歩エ割合ヲ以テ用水之内、両金丸村エ十分壱分水仕、九分通リ下郷村々エ引分、尤モ両金丸村分水口四ケ所、下郷村々用水路之内右分水之場所エ四ケ所土台木ヲ伏、尤モ両脇ニ柱を立双方反別ニ応ジ無甲乙引取候筈ニ熟談仕候、尤モ右土台木双方立合相立其節入用并後々修復之度毎反別割合を以て、時々ニ双方より差出候筈ニ相極メ候事
一、北金丸村庄蔵ニ建置候水車并同村彦兵衛新規ニ相立候水車共ニ二ケ所之儀、当時用水ニ差障リ候儀ニハ無御座候ニ付、建置申候万一此上用水不足ニテ差支候節ハ水車二ケ所共ニ相止申候筈ニ相申候其節異議申間敷候、勿論両金丸村之内右二ケ所之外水車決シテ相立不申筈ニ相究メ申候事
一、北金丸村之者共川狩等之儀ハ向後堅ク為致申間敷候、右用水路ニおひて猥成儀堅ク仕間敷候事双方熟談右之通り内済仕、此上ハ用水差支無御座偏ニ御威光ト難有仕合ニ奉存候、然ル上ハ右ニ付御訴訟ケ間敷儀申上間敷候、為後証双方并扱人連判済口一札奉差上候所仍而如件
小林孫四郎御代官所
野州那須郡湯津上村
名主 源左衛門
安永二癸巳歳四月 組頭 利右衛門
百姓代 万右衛門
川崎市之進御代官所
同国同郡同村
名主 武右衛門
組頭 兵蔵
百姓代 喜惣兵衛
大田原出雲守領分
同国同郡狭原村
名主 平左衛門
組頭 源左衛門
百姓代 重左衛門
同領分
同郡狐嶋村
名主 武治右衛門
組頭 久左衛門
百姓代 忠右衛門
花房八重郎知行所
同国同郡同村
名主 与惣右衛門
組頭 治左衛門
百姓代 伝左衛門
伊沢内記知行所
同国同郡下湯津上村
名主 安左衛門
組頭 新助
百姓代 三右衛門
大関弁吉様御領分
同国同郡南金丸村
名主 又右衛門
組頭 定八
百姓代 村右衛門
同領 同国同郡北金丸村
名主 初右衛門
組頭 彦兵衛
百姓代 善左衛門
車持 庄蔵
倉橋三左衛門知行所
同国同郡小船渡村
扱人 弥右衛門
桑山長兵衛知行所
扱人 兵蔵
御奉行所様
(永山正樹家文書)