下野国那須郡蔵保根(くらほね)村・片府田村・新宿村野論籌策(ちゆうさく)之事
一 下野国那須郡蔵保根村入会之野出入ニ付、新宿村片府田村双方、去年中御公儀様エ御訴訟仕リ、御評諚所迄度々被二召出一申候テ、則チ立合之絵図被二仰付一、対決可レ有二御座一所籌策有レ之、以今度相極候所ハ、篠平より鹿畑村エ通候道東ハ、蔵保根村付野ニ相定申候、西ハ蔵保根村・鹿畑村・奥沢村・宇田川村・片府田村・新宿村右六ケ村入会ニ、相定申候、但シ新発ハ、地本(もと)蔵保根村より開キ申筈ニ相究(き)メ申候、勿論荒地之畑成共、かや立出し新林一切仕間敷事
一 前谷地之儀ハ、鍛治橋道よりなめし田悪水堀迄、北ハ半分付野ニ相極メ申候、南半分野ハ、蔵保根村・片府田村・新宿村・両蛭田村・右五ケ村入会ニ相定申候、勿論新発互ニ一切仕間敷候
右村付野江、其方より構エ仕申間敷候、若シ猥リニ入籠候ハバ、砥鎌おさへ可レ申事
右之通宇田川村成就院御籌策ヲ以テ埒明(らちあけ)申候、自今以後、御六ケ敷出入仕間敷候、為二後日一仍如件
貞享三年寅四月十四日
佐原三右衛門様御代官所
籌策人
宇田川 成就院
坂本内記様御領
蔵保年村 太郎左衛門
同村 太郎兵衛
同村 弥惣左衛門
貞享三年寅五月十三日
御領宇田川
籌策人 成就院
坂本内記様御知行所
蔵保根村 太郎左衛門
安藤九郎左衛門御知行所
寺知恵村 権右衛門
大田原備前守様御知行所
狐嶋村 市之丞
坂本内記様御知行所
上奥沢村 伝十郎
坂本内記様御知行所
下柚子上(ゆずかみ)村 甚兵衛
佐良土村 孫市
那須遠江守様御知行所
蛭畑村 六左衛門
下蛭田村 市十郎
一 下野国那須郡蔵保根村入会之野出入ニ付、新宿村片府田村双方、去年中御公儀様エ御訴訟仕リ、御評諚所迄度々被二召出一申候テ、則チ立合之絵図被二仰付一、対決可レ有二御座一所籌策有レ之、以今度相極候所ハ、篠平より鹿畑村エ通候道東ハ、蔵保根村付野ニ相定申候、西ハ蔵保根村・鹿畑村・奥沢村・宇田川村・片府田村・新宿村右六ケ村入会ニ、相定申候、但シ新発ハ、地本(もと)蔵保根村より開キ申筈ニ相究(き)メ申候、勿論荒地之畑成共、かや立出し新林一切仕間敷事
一 前谷地之儀ハ、鍛治橋道よりなめし田悪水堀迄、北ハ半分付野ニ相極メ申候、南半分野ハ、蔵保根村・片府田村・新宿村・両蛭田村・右五ケ村入会ニ相定申候、勿論新発互ニ一切仕間敷候
右村付野江、其方より構エ仕申間敷候、若シ猥リニ入籠候ハバ、砥鎌おさへ可レ申事
右之通宇田川村成就院御籌策ヲ以テ埒明(らちあけ)申候、自今以後、御六ケ敷出入仕間敷候、為二後日一仍如件
貞享三年寅四月十四日
佐原三右衛門様御代官所
籌策人
宇田川 成就院
坂本内記様御領
蔵保年村 太郎左衛門
同村 太郎兵衛
同村 弥惣左衛門
下野国那須郡蔵保根村・寺知恵(じちえ)村・狐嶋村・上湯津上村・下湯津上村・佐良土村・蛭畑村・上蛭田村・下蛭田村・新宿村・片府田村馬草場出入ニツキ、江戸へ罷リ上リ、御訴訟申上候所ニ立合絵図仰付ケサセラレ、対決可仕所ニ、宇田川村成就院、籌策ヲ以テ、東野之儀ハ右之九ケ村先規之通り、入会ニ相極申候
残リ新宿・片府田村ハ、蔵保根村もより之東野ニテ、為レ苅(から)申筈ニ相定申候、自今以後、互ニ六ヶ敷儀申間敷候、為二其村々連判一如二此之一御座候為後日仍如件
貞享三年寅五月十三日
御領宇田川
籌策人 成就院
坂本内記様御知行所
蔵保根村 太郎左衛門
安藤九郎左衛門御知行所
寺知恵村 権右衛門
大田原備前守様御知行所
狐嶋村 市之丞
坂本内記様御知行所
上奥沢村 伝十郎
坂本内記様御知行所
下柚子上(ゆずかみ)村 甚兵衛
佐良土村 孫市
那須遠江守様御知行所
蛭畑村 六左衛門
下蛭田村 市十郎
(鈴木堅一家文書)
後年同じような場所で、同様の村々で争論がおきている。片府田村ほか四ケ村と大和久・赤瀬両村の秣場争論である。
(『大田原市史』による)