宇田川村の者だというので、早速宇田川村の村役人民治外四人の者を呼びつけてかけ合った。
大和久、赤瀬方では、この所は大田原藩の御用茅場で、八カ村の入会地ではないから詫証文を書けと言うのだった。
宇田川方では、入会地に入ったのであるから、詫証文は書けないと答えたので、大和久・赤瀬方は、馬と一緒に佐吉を赤瀬村名主の家にとめておき、この旨を藩庁に届け出た。
大田原藩庁から役人が出張し、佐吉を引きたてて帰り、取調べたところ詫びたので、馬と共に当人を帰し、七月十四日次のような意味の書状を、松野孫八郎方の地方役人に送った。
御許様知行所、宇田川村百姓佐吉と申者が、当領分赤瀬村茅場へ馬をひき入れ、萩刈りをしているので、赤瀬村の者が行き名前を尋ね調べたところ、雑言過言を吐いたので、赤瀬村名主方へ人馬共同道いたし、居村・名前を尋ねたところ、前同様不法を申すので、宇田川村役人に来て貰い、尋ねたところ、宇田川村の佐吉なることが判り申した。今後かかることのなきよう書付けを出させるよう、村役人に申したところ、村役人は、そのような書状は書けぬ故、勝手にされたいと言って帰ってしまったので、止むなく当役場へ引立て取調べたところ、不法雑言を吐いて申し訳なかったと詑びを申すので、佐吉、馬共帰したが、今後心得違いのないよう、宇田川村へよく理解するよう話して貰いたい、と言うものだった。
これに対し宇田川村役人は大田原藩へ次のような回答の書状を送った。
要旨は、あの秣場は前々から最寄り八カ村の入会地であり、それをさる五月中大和久村大内蔵(おおくら)方から、ここには大田原藩の御用茅場があり、その部分には入会はできないとの話があったが、ここは八カ村の入会地であるから、宇田川だけでは答えることはできないと返答しておいた。
佐吉がその場所へ立入ったのは、前々からのしきたりによったもので、それを馬と一緒に差し押え、不法に立ち入ったのは申し訳がないと詫証文を書けといわれたが、その言い分には従う訳にゆかない。このような不埒なことをいう大和久・赤瀬村の者達へ、そちらで充分説諭してもらいたい、というものである。
大田原藩から宇田川村の役人達へ申し送った書状では、大和久・赤瀬の者達の主張をそのまま認めさせようとしたもので、これに対し、宇田川村の方では、そのまま認め難いと言う返答であり、直ちに江戸幕府へ他の関係と共に訴願をした。
慶応三卯年(一八六七)九月十三日、都築駿河守様御役所へ着き、次のような訴状を出した。
乍レ恐以二書付一御訴訟申上候
山内源七郎御代官所
野州那須郡片府田村
同御代官所
松野孫八郎知行所
同州同郡 新宿村
松野孫八郎知行所
久世下野守知行所
同州同郡 宇田川村
久世下野守知行所
同州同郡 倉骨村
奥沢村
右五ケ村小前村役人惣代
右片府田村
訴訟人 名主 清左衛門
不法出入 右宇田川村
孫八郎知行所
同
同 滝左衛門
大田原〓丸様御領分
同州同郡
赤瀬村
大和久村
相手方
名主 大内蔵
同
同 元右衛門
同
村代 和三郎
〃 文之助
右訴訟人片府田村清右衛門外壱人奉申上候……との書出しでその訴状の大意は、
争論のまぐさ場(上平野)は、私共五カ村(片府田村・新宿村・宇田川村・倉骨村・奥沢村)並びに鹿畑村・大和久村・赤瀬村八カ村の入会の地、貞享年中(一六八四~一六八八)出入りがあり、その節境界を定めてから何らの問題もなく、今日に至っていたのに、卯の春(慶応三年春)鹿畑村で問題があり、八カ村立合で問題を解決し、同五月には大和久・赤瀬両村は、入会地内に大田原藩の御用茅場及び阿久津長十郎(大田原家々臣)の御林があり、ここは入会外であるとの申し分である。しかし、この土地は昔からの入会地であり、その証拠に、両村と入会地の境には松が植えてあり、境界がはっきりしている。
もし疑いがあるならば、双方で従来から所持している証拠の書類全部を見せ合って、解決をしようと申し入れ、自分の方では一切を相手に見せ、相手方にも見せてくれるよう要求したが、相手方は現在領主役所へ差し出してあり、今手許には無く、すぐには間に合わないなどと言いまぎらわしている。
相手方は領主(大田原)役所を後楯に、まぐさ場を横領しようと考えていることに相違なく、しかも七月九日には宇田川村の百姓佐吉がこの所に立ち入ったとして、馬と一緒に取り押え、かけ合ったところ、詫び証文を出せば許してやるとの言い分であり、その後相手方は藩役人からも当領主方の役人へ同様の手紙をよこしている。
しかしこの土地は昔からの入会地で、これを掠め取られては、村々は立ちゆかない始末ともなるので、どうか相手の者共を召し出し、お取調べの上、従前通りわれわれがそこへ立ち入ることができるようにして貰いたい、とのこである。
もし疑いがあるならば、双方で従来から所持している証拠の書類全部を見せ合って、解決をしようと申し入れ、自分の方では一切を相手に見せ、相手方にも見せてくれるよう要求したが、相手方は現在領主役所へ差し出してあり、今手許には無く、すぐには間に合わないなどと言いまぎらわしている。
相手方は領主(大田原)役所を後楯に、まぐさ場を横領しようと考えていることに相違なく、しかも七月九日には宇田川村の百姓佐吉がこの所に立ち入ったとして、馬と一緒に取り押え、かけ合ったところ、詫び証文を出せば許してやるとの言い分であり、その後相手方は藩役人からも当領主方の役人へ同様の手紙をよこしている。
しかしこの土地は昔からの入会地で、これを掠め取られては、村々は立ちゆかない始末ともなるので、どうか相手の者共を召し出し、お取調べの上、従前通りわれわれがそこへ立ち入ることができるようにして貰いたい、とのこである。
この訴状でも判るように、この土地は前記の村々が、まだ那須領であった貞享年中(一六八四~一六八七)に争論があり、その後、鹿畑村との争論で境界は確定していた場所であり、それを大和久・赤瀬両村民が、一部は藩のご用茅場地であり、そこは入会地でないとの言い分からの争いである。この言い分は後記の諸文書からみて、大和久・赤瀬方が不当な言い掛りをつけたもので、五か村が正しいようである。
幕府評定所は八月二日(慶応三年)、奉行並びに係役人連盟をもって、原被告共に九月十六日評定所に出頭対決せよ、との通知を出した。
しかし、この問題はなかなか解決されず、ついに、明治六年(一八七三)やっと話し合いがついて、村境を確定し、次のように証文の取替しをした。
明治六年村境確定証書為取替申証文之事
今般御一新之受際ニ至り、地券取調ニ付、耕地絵図面被仰付、双方立会相改候境界之儀ハ、宇田川村愛宕森東之塚、宇田川村・片府田村・赤瀬村右三ケ村境塚ニ相定メ、夫より二番之塚へ亥ノ三分ニ当リ、廿七年間同所より三番之塚へ亥ノ五分ニ当リ廿間、夫より四番之塚迄之間畑西見上ケ塚ニ相定申候、同所より五番之塚へ寅一分ニ当リ拾四間欠、中塚より、鹿子舞頭境松へ見通、夫より赤瀬村死馬捨場之境塚へ見通し、同所より小平坂下境塚迄、双方共御繩受田地境界相定、同所塚ヨリ大和久村小平山出張角塚迄之間見上ケ、境ニ相定、同所塚より亥ノ三分ニ当七間見出し、夫より境松へ丑ノ六分当リ三拾壱間半右境松より、苅切村薬師堂東境塚より寅ノ弐分ニ当拾間見出し、元境へ見通し、同所より苅切村前之方飯森山追之間見上、境ニ相定申候、夫より境松へ申(さる)ノ五分ニ当廿八間、右松より未(ひつじ)の八分ニ当リ境塚へ三拾九間半、右塚より未ノ八分ニ当リ三拾間、同所塚より鹿嶋川へ未ノ八分ニ当リ拾間、是より鹿嶋川境相定申候、上川毛村前之方ハ、塚境ニ相定申候事、前書之通リ双方立合納得仕、村境相定申候上ハ、相互ニ向後違乱申間敷候、但シ村境之義ハ、拾ケ年毎ニ、双方立合相改可申候、為後証双方連印、為取賛証文仍而如件
明治六年癸酉八月十一日
赤瀬村 五月女金七 五月女金蔵
大和久村 桜岡久馬 桜岡四郎平 桜岡多平
刈切村 桜岡笹一郎 槐兼治 桜岡直蔵
上川毛村 桜岡高蔵 桜岡儀平
宇田川村 藤田利平治 阿久津茂一郎 菅谷定平
田村直三郎 室井滝一郎 増淵儀平
阿久津幸造 伊藤伝三郎 阿久津清四郎
伊藤新五郎 増淵倉太 藤田豊治
伊藤又治
今般御一新之受際ニ至り、地券取調ニ付、耕地絵図面被仰付、双方立会相改候境界之儀ハ、宇田川村愛宕森東之塚、宇田川村・片府田村・赤瀬村右三ケ村境塚ニ相定メ、夫より二番之塚へ亥ノ三分ニ当リ、廿七年間同所より三番之塚へ亥ノ五分ニ当リ廿間、夫より四番之塚迄之間畑西見上ケ塚ニ相定申候、同所より五番之塚へ寅一分ニ当リ拾四間欠、中塚より、鹿子舞頭境松へ見通、夫より赤瀬村死馬捨場之境塚へ見通し、同所より小平坂下境塚迄、双方共御繩受田地境界相定、同所塚ヨリ大和久村小平山出張角塚迄之間見上ケ、境ニ相定、同所塚より亥ノ三分ニ当七間見出し、夫より境松へ丑ノ六分当リ三拾壱間半右境松より、苅切村薬師堂東境塚より寅ノ弐分ニ当拾間見出し、元境へ見通し、同所より苅切村前之方飯森山追之間見上、境ニ相定申候、夫より境松へ申(さる)ノ五分ニ当廿八間、右松より未(ひつじ)の八分ニ当リ境塚へ三拾九間半、右塚より未ノ八分ニ当リ三拾間、同所塚より鹿嶋川へ未ノ八分ニ当リ拾間、是より鹿嶋川境相定申候、上川毛村前之方ハ、塚境ニ相定申候事、前書之通リ双方立合納得仕、村境相定申候上ハ、相互ニ向後違乱申間敷候、但シ村境之義ハ、拾ケ年毎ニ、双方立合相改可申候、為後証双方連印、為取賛証文仍而如件
明治六年癸酉八月十一日
赤瀬村 五月女金七 五月女金蔵
大和久村 桜岡久馬 桜岡四郎平 桜岡多平
刈切村 桜岡笹一郎 槐兼治 桜岡直蔵
上川毛村 桜岡高蔵 桜岡儀平
宇田川村 藤田利平治 阿久津茂一郎 菅谷定平
田村直三郎 室井滝一郎 増淵儀平
阿久津幸造 伊藤伝三郎 阿久津清四郎
伊藤新五郎 増淵倉太 藤田豊治
伊藤又治
この間、政府役人が出張見分したか否かは不明である。明治十年(一八七七)には八ケ村から各責任者が選ばれ、次のように所有権が確定した。
明治十年字上平野秣場反別調
那須郡八ケ村組合
奥沢村
六百九十番 字稲荷原外(省略)
合反別四拾五町弐反六畝八歩
鹿畑村
六番 字西鹿畑外(省略)
合反別三拾壱町六反五畝廿六歩
倉骨村
イ三百八十八番
字狐平 外(省略)
合反別三拾七町五反三畝歩
新宿村
六百六十四番
一秣場拾四町五反五畝六歩
片府田村
千三百三番
字アマ久保
一秣場廿七町三反廿六歩 外
吉成岩五郎
千二百九十九番
字山崎
一荒畑壱反三畝廿弐歩
高野喜四郎
千三百番
字山崎
一荒畑三反四畝八歩
阿久津熊次郎
千二百九十八番
字富士山
一荒畑壱反拾弐歩
赤瀬外
一番
字下赤瀬外(省略)
合反別三拾四町弐反五畝八歩
十四番 大和久村
字奥沢道下
合反別九町八反七畝拾八歩
惣計反別百九拾八町四反四畝弐歩
但シ秣場之分
外ニ 反別六町三反三畝七歩
官有山林其他民有畑、荒地、芝地等ニテ入会秣場ニ無之分
一 今般地租御改正ニ付、各村担当人立合、字上平野従往古入会地所丈量シ、毎年全図地別帳照合シ、反別取調候処無御座候
最黒筋ヲ以地元ヲ区分シ有之上ハ、何レノ村全図ニ記載ノ地ト雖モ、此図面之通相互ニ秣可為入会、但荒畑芝地等図中ニ記載之分、其持主限リ進退可被致候、向後秣場反別之地ヘ、新開・新林ハ勿論、立萱等一切不仕、境界確守シ、聊背反致間敷候
為後鑑一同連印致置候也
明治八年亥八月 日
片府田村
高野喜四郎 大久保幸平 鈴木忠次
新宿村
伊藤米造 伊藤宇八 渋井儀重
倉骨村
郡司勘四郎 桜岡熊吉
宇田川村
増淵儀平 菅谷定平 阿久津茂一郎
田村直三郎 阿久津幸造
奥沢村
大河原喜一郎 磯与惣平
小山田直三郎 増淵文治
小山田長十郎
鹿畑村
永山勘一郎 吉成幸三郎
大和久村赤瀬村
桜岡直蔵 増淵源一郎 桜岡笹一郎
桜岡久馬
右絵図担任
宇田川村
藤田利平
片府田村
大久保清一郎
倉骨村
郡司七十二
鹿畑村
福田随平
この争論に関する文献は原告側のものであり、被告側の文献はまだ見当らない。これによって見ると原告側の主張が大体において正しいようである。
大田原市史は以上のように評している。