中野山入会秣場争論

343 ~ 343
寛永年間那須美濃守資重知行所福原の地内に、中野山秣場が在り、福原村・大神村・上蛭田村・下蛭田村・新宿村・片府田村・苅田村・浄法寺村・大沢村・大滑村外近接の村々の入会地であったが、領主の考えで、佐久山領に任せられた処、その土地の百姓達が、林を立てられて馬草採りに不自由を来し、営農にも差し支えることになると訴え出、佐久山領へは別の場所(鷹ノ巣・三斗内)を替地にやり、中野山は旧に戻し、再び入会地となった。
 中野山の出入は、慶長十五年頃より寛永・延宝・貞享と再々ひき起された。
 その後、元禄二年に至り、箒川東の片府田村・新宿村・上蛭田村・下蛭田村四ケ村の馬草採りを、福原村・大神村・浄法寺村の者共が妨害し、四ケ村より奉行所へ訴え出て解決をつけた。
 この記録の末尾には次のように記されている。
中野入会秣場絵図義、右之訴状書付等、上蛭田村名主四郎兵衛子孫喜右衛門屋敷ハ、片府田村・新宿村・両蛭田村之中成ニ付、四ケ村の物入ニテ蔵ヲ建入置申候、末代迄屋根替諸入用等、四ケ村割合差出申候、尤も其時之入目高三ツニ割、壱ハ四ケ村軒別、壱ツハ高、壱ツハ馬数江割合出来リ申候也      (蜂巣丈平家文書)

 狭原村と黒羽との間にも、享保九年五月に秣場の出入りがあり、それより五十年以前にも、同所秣場の問題が起きたことが記されている。
(船山久三家文書)