1 戊辰戦争(片府田村・佐良土村の戦)

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 明治元年九月(慶応四年九月八日改元、明治となる)会津を救援しようとして水戸を脱出した三百余名の水戸藩兵(天狗党)は、すでに西軍に包囲されて、会津城に入ることができず、これまた同様の越後長岡藩兵と一緒になり、会津田島より三斗小屋を経て百村に出たとの情報が、九月二十六日大田原藩に届いた。水戸、長岡両藩兵が大田原城を襲うやも知れぬというので、驚いた大田原藩では、当時奥州出陣の途次、光真寺に宿泊していた江州彦根藩隊、及び市野沢にあった四国阿波藩隊、更に黒羽藩にも応援を求めた。
 水戸、長岡藩兵達は大田原領高林村より同領横林村を経て、石上村より薄葉、平沢、滝沢、滝岡、小種島を経て九月二十六日夕刻、片府田にいたり宝寿院および民家に泊った。
 大田原、彦根、阿波、三藩は彼らの背後を襲い、黒羽藩兵は佐良土において退路を待ちうけた。
 大田原藩らは九月二十七日早暁、刈切、大和久を経て、兵陵上の間道を通り、片府田の北部二階林に、朝四時五十分頃到着、直ちに偵察し敵兵の姿を認めた。直ちに行動を開始し、蛇尾川用水々路の空濠に入り、元の諏訪神社前、火の見前方の敵本隊に向って銃口を開いた。
 朝食をとろうとしている処、不意をつかれた彼らも直ちに応戦し、白兵戦になったが、約二時間の後算を乱して佐良土方面に遁走した。
 この戦いに参加した兵員、大田原勢百名、彦根勢三百名、阿波勢百名。敵方は水戸、長岡兵三百名であった。
 佐良土においては、黒羽藩兵がこれを迎え撃って大いに破った。水戸、長岡兵は河を渉って逃げた。短時間であったが激戦で、銃砲の音天地を震わし、佐良土の大半は兵火にかかって焼失し、里人は家財をまとめ、矢倉山や或は蛭畑の方へ逃れたという。
 水戸兵の死者も多く、村人たちの手により、田宿の外れに供養の碑を建ててまつり、盆には香を手向けて供養した。碑は自然石で「戦死塔」と刻まれ、明治元年九月廿七日と記され、また傍らの別の石には、供養のため寄付した村人達の名が記され、草に埋れている。
 片府田で戦死した水戸、長岡兵達については、明治二十一年九月二十七日、土地の女人達が供養塔を建てた。碑は三段の台石の上に「戦死供養塔」と太文字で刻まれている。
(大田原市史)


片府田 供養塔


佐良土戦死塔

 明治百年野州外史によると、脱走軍側の記録には「さえぎる官軍を打ち破った」とあり、大田原藩の記録には「黒羽軍が迎撃すると狼狽のていで敗走した」とあるが、黒羽藩の記録では「わが不意打ちにも驚かず、よく隊列を整えて退いた」といっている。官軍の損害は、黒羽藩が戦死三、負傷二、大田原が戦死一、負傷三、彦根が戦死四、負傷一、計戦死八、負傷六、脱走軍の方は、はっきりした記録はないが、官軍の方では二一名を倒し、二人を生け捕りにしたといっている」と載っている。
 水戸市史編さん室の調査によると、水戸の兵士達を「諸生党」と称している。佐良土にて戦死している者が三人おり、氏名は次の通りである。
 芦沢祐七郎(先手同心頭)、斎藤捨松(徒士)、中川彦四郎(吟味役)
 佐良土の「かみや」佐藤氏の当時のおばあさんの話しによると、その日屋敷隅の芋小屋に夫婦でかくれていると、水戸兵にみつかり、危害を加えるものではないからと断わり「空腹なので何か食べ物をくれ」といわれ、お握りをつくり、あり合せの酒を出してやった、その兵士はお礼のしるしにと言って梨地の羽織を脱いでおいて行った、という。(同家の親せき斎藤郁氏の話)