2 農民騒動(一名ヤーヤー騒動)

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 明治二年(一八六九)十一月、近郷の百姓達が合郷台(汗子台)(あせごうだい)に集合して、左の六ケ条の内容の歎願運動を図った。一部の集団は上沼村の秣(まぐさ)場に集まった。近郷廿九ケ村からなる大掛りなものであった。
 この騒動は目的地日光県庁に達する前に、途中沢村(矢板市)で、駈けつけた役人の説得により鎮静し、主謀者四人が捕縛されて日光県庁へ連れられた。
 その主謀者の一人が、片府田村の吉成文平であった。文平は県庁に着く前に脱走したものか、取調べが済んで願意が達せられないことが判ってから姿を消したものか、再び片府田村に姿を現わさなかった。結果の不首尾に責任を感じ、郷党にあわせる顔がないとしての行為であったろうか。
 文平は、同村内の鈴木氏から吉成家に婿養子になった人である。彼は元治元年、名主鈴木助左衛門たちと、片府田用水開削工事の中心になって働いた人物である。この用水堀は、幾度か補修を加え、明治二年になって完全なものになったのである。歎願運動の代表者に、村人たちから推されるような立場の人物であったとも、また村人たちを動かす力を持つ人物でもあったとも言い得よう。
 百姓の直訴、一揆、歎願等の運動、騒動は中世近世を問わず、頻繁にくりかえされた。天候による不作凶作、助郷制による労役の徴発による労力の不足等により、農民はいつも窮乏の生活を強いられていた。御維新になり、民意は何事によらず申し述べるようにとの、御布令等も発せられた時で、新しい時代を即刻期待したのが実現せず、裏切られた不満から、このような騒動が秩序を超えてあちこちに起きたものと思われる。
    乍恐一同奉歎願
下野国那須郡村々歎願之始末左ニ奉申上

一、今般奉申上候義は、当巳年之義作方稀成(まれなる)不熟ニ御座候間、先般御検見御苅様之上、格別之御引にも相成候段、一同御仁政難有仕合ニ奉存候。

然ル処、昨年之義は、不申上御軍役夥敷(おびただしく)不昼夜ニ宿詰は勿論白川并ニ会津御進軍之人足を相勤メ、農事の暇更ニ無之、田畑手入方自然不行届唯仕付候ノミニテ、悉ク違作仕候処、御年貢米之義、御引方も無御座、前々之通被仰付、其外高掛リ諸夫銭莫大ニ相掛リ、難渋仕居候折柄、困窮之者共も御救助米頂戴仕リ、難有農業仕付精々仕候処、七月中大嵐ニテ、田方ハ勿論畑作迄取実薄、雑穀扶喰(ぶじき)之手当無之、御上納御候得共、来ル(来年)午ノ種穀并ニ扶喰米更ニ無御座様成行、百姓丹精可尽力も無御座、村々一同難渋仕リ候間、当巳之御上納米之内半高、来午ノ種穀并ニ扶喰為手当、年賦拝借被仰付、百姓相続相成候様、御仁恵之御沙汰被仰付候様奉歎願候。

一、御年貢米東京浅草御蔵納ニ被仰付候テハ一同難渋仕候間、旧来之通、時相場払代金納被仰付候様奉願上候。

一、先般国家融通之為、金札御下ケ渡相成候ニ付、高割ヲ以テ正金銀ト引替、御上納可致旨被仰聞、敬承候得共、窮貧之村々之義故、正金貯候者無之、有徳之者へ無心仕リ、金壱両ニ付金弐朱宛歩合金ヲ差出し、漸ク才覚上納仕候処、悪金ニ付御下ケニ相成リ、請金口前御下ケ相成候金札ニテ、早々引替可申旨村々役人より厳重被申聞、早速金主方へ替金申談事候得共一切取敢不申、他へ差向候ても、御上様より悪金として御下ケ相成候上ハ、強テ通用不相成、村々必至之才覚ヲ以テ、金札返納ハ仕候得共、右御刎(はね)金ニ相成候分所持仕リ、通用不相成、一同取続方ニも差支エ極々難渋罷有候間、右金子融通相成候様、御仕法被下置度此段奉歎願候。

一、去ル寅年より、当日迄貧民共田畑質地ニ相渡置候分、追々違作続旁難渋弥増、金子調達不相成、耕地不足仕リ潰レ退転之分無御座難渋仕候間、恐多キ御儀ニハ御座候得共、今般難有御一新之折柄、質地請戻し金年賦拝借被仰付下置度、此段偏ニ奉願候。弥御用済ニ難相成候義ニ御座候ハバ、金主共より地主共地面差戻し被仰付、質地金之義ハ、来午より無利足拾ケ年賦ニ、済方被仰付下置候様幾重ニも奉歎願候。

一、貧民一同下々方借金之義、難渋困窮相嵩候間、御上様へ来ル午之種穀扶喰米迄、奉拝借程ノ時勢ニ御座候得ハ、不申上元金迄茂、更ニ返済手段無御座必至難渋仕候間、金主共へ無利足拾五ケ年賦済方被仰付候間窮民御救被下成度此段奉歎願候。

一、村々役人之義ハ村々限リ小前一同集会之上、人撰入札ヲ以テ相定メ役人願上候様被仰付度奉願上候。

前書ケ条之簾々、御時節村々惣百姓難渋相迫リ、挙ゲテ奉歎願度出郷仕候ニ付、何卒以御仁恤ヲ、前書歎願之始末御聞済被成下置、此段惣代ヲ以テ奉願上候 以上

     片府田村 新宿村  上蛭田村
     下蛭田村 蛭畑村  浄法寺村
     小川村  福原村  大神村
     中居 八木沢村 滝の沢村 岡和久村
     青木 若目田村 上沼村  小種島村
     三色手村 宇田川村 三斗内 鷹巣村
     薬利村  山崎村  佐良土村
     大久保村 山田村  矢倉村
     上 下滝村 小船渡村 倉骨村
     鹿畑村  奥沢村
       右村々惣代
          片府田村  文平
          青木 若目田村  善蔵
          同村    常蔵
          岡和久村  伊右衛門
  明治二巳年(一八六九)十一月 日
   御当方様
『大田原市史』
(藤田隆家文書)

 右歎願書文意
一、明治元年(慶応四年)に引続き、明治二年の不作、元年には戊辰戦争のため、白川、并ニ会津の戦争に人夫をつとめ、田畑の手入れも思うようにできなかった。同二年七月にも大嵐にて不作、しかも年貢の軽減はなく、種穀、食糧も不足の有様である。年貢米の内から半分を種、食糧として貸して貰いたいとの願いである。

二、年貢米は江戸送りとせず、前年同様時価相場にて、金納にして貰いたい。浅草の御蔵納めにしてしまっては、いざという時食糧がなくなってしまう。

三、新政府は金札を発行したが、上納は正金銀でせよとの命令でありますが、百姓共に正金銀がなく、やむなく裕福な者から、壱割弐分五厘の歩合を払って才覚し、納入したがそれは悪銭であったため、政府より却下された。村の者は金主に、正金に替えてくれるよう話したが頼みをきかず、更に渡した金札と取り換えてくれと談じたが埒(らち)があかなかった。やむを得ないからその悪銭のままで、通用させて受けいれてくれというものである。

四、慶応二年(一八六六)より明治二年(一八六九)までの借金質入れの田畑の買戻し金につき、年々不作つづきでどうにもならず苦しんでいるので、御一新に改まった折柄、年賦で貸して貰いたい。

もしそれがだめなれば、金主、地主に土地を百姓に戻すよう命令を出し、その借用金は無利息拾ケ年賦にするようにして貰いたいとの願いである。

五、百姓一同借金がふえ、種穀、食糧までも借入れしなければ生活できぬような有様なので、借金については無利息十五ケ年賦の命令を発するように願いたいというもの。

六、村役人の人選は、村人全員の公選によってきめるようにして貰いたい。

(村役人――名主・組頭・百姓代――の選任は、村によって世襲制、交代制があった。交代制の場合は、領主からの指定するものと、前任者が後任者をきめて願い出るもの、村民の選挙によるもの等があった。当地方は世襲と領主の任命が多かったと思われる)

 当時、当地の天領、旗本領は日光県に属しており、この近郷の日光県出張所は佐久山町にあった。彼らはこの歎願書を、佐久山出張所に提出したが許されなかった。そこで小前百姓たちは、十一月十五日夜、主謀者である文平の近くの片府田村合郷(汗子)(あせご)の芝地へ、他の一部は、同主謀者善蔵、常蔵、伊右衛門の住所近くの上沼村の秣場に集合、要求貫徹について相談をした。
 各村役人たちは大いに驚き、現場にゆき説得したがおさまらず、百姓達は合同して十六日夕刻、佐久山宿を出てヤーヤーと喚声をあげて、日光県庁へ向かおうとした。その夜は日光街道沢村(矢板市)の原中に野宿し、かがり火を焚き、焚きだしをして、翌早朝県庁に押しよせようとした。
 佐久山出張所役人たちは大いに驚き、現地にかけつけ、鎮撫しようとしたがなかなか説得に応じない。そこで、一応、彼らの願意を聞き届ける旨を申し渡して押ししずめ、主謀者四人を捕縛して日光県庁へ引き立てて行った。
 ここに記された右歎願書は、沢村原中の現地で記したもので、元の歎願書は、願文の周囲に輪形に署名し、誰人が主謀者であるかを不明にしたものと言いつたえられ、役人たちが抜刀して主謀者を究明したので、前記四人が自ら名乗り出て、その席で前記願書を書かされ、捕縛されて行ったものであるといわれている。
 その後村役人たちは、次のような弁明書を県に対して差し出している。
  乍恐以書付申上
一、今般佐久山宿へ御出役被遊、村々役人并ニ小前惣代之もの被召出、去ル十五日夜上沼村秣場并ニ片府田合郷(汗子)と申芝地へ百姓共多人数屯集致し、同十六日佐久山宿へ、右百姓共大声ヲ揚ゲ通リ掛リ候ニ付、佐久山役場ヨリ御差し留め相成り候一件、右百姓共趣意柄并ニ村役人共心得方、御糺し御座候ニ付左ニ申上候。

一、村々役人共義、小前百姓共前書合郷之台江相集リ候趣、追々承知仕候ニ付、各村方へ引戻し度ト存じ、其場迄趣キ申諭候得共、何分多人数ノ義ニ付相制し候ても聞入不申、彼是心配仕候中、時刻押し移リ十六日暮合ヨリ右場所引払い、佐久山宿方へ相掛リ候間、役人共ニ於テモ是非差留度追掛候得共、中々以相留リ不申、其内宿内通リ掛リ大勢のもの大声を揚ケ候事故、夥敷相聞候ニ付、佐久山御役場ヨリ、役人中御出役被成、日光街道沢村通リノ原中ニテ御差留被下候趣追々承知仕リ、右場所へ村役人共駈付ケ、猶又御出役御役人中へ相縋り連而是にて御差留メ被下度段一同御願申上候ニ付、御同家御家来中、程々御利解被成下候上、寒夜ノ義ニ付多分之薪御取寄二拾五―六所も篝(かがり)焚き百姓を囲居いたさせ、其上宿内へ被仰付多分之焚出し御運送ニテ百姓共ハ勿論私共迄も食用致候様、多人数へ御配リ被下置、夫より右百姓共へ趣意柄申上候様被仰聞百姓共之内ヨリ書取ヲ以テ申上度旨申上候ニ付、御聞済被成御猶予有之、漸ク書取出来差上候処、御認印之上惣百姓共之内ヨリ鬮取ヲ以テ四人御召連其場所ヨリ御家来中御三人日光表へ御出立ニ相成リ、其節大勢之百姓共義ハ御利解承知仕リ、何分ニモ相願候旨申上退散之義、奉畏候ニ付、其場所ヨリ各村方へ引取申候。右之通リ之次第ニテ村役人共儀、小前共如斯体ニ及候ヲ取押方不行届、佐久山宿御役場之御威光ヲ以テ、引留リ相成候次第、何共不行届之段奉恐入候。

 前書申上候通リ佐久山御役人中様御厄介ニ相成リ候ニ付、村々役人之内ヨリ多人日光表へ随従致差出し申候。

 右之通リ之次第ニ御座候間、村役人共ハ、小前百姓共之願意モ不相弁、且制方も不行届恐入奉存候。此上何分寛大之御所置奉願上候。右申上候通リ相違無御座候。仍而役人共一同連印ヲ以テ此段奉申上候  以上

               (村役人名不記)

(『大田原市史』 宇田川文書)

 この騒動の参加人数は不明であるが、村数二九ケ村から推定すると、六百人を超えたであろうと、大田原市史には記してある。
 はたしてその要求が達せられたとの記録もない。二九ケ村の内、二二ケ村の村役人及び小前惣代連印の請書は次の通りである。
 願い向きのことがあれば、神妙に惣代を通して申し上ぐ可きで、徒党をもってするようなことは、厳しく取り締まるとの意である。
  差上申御請書之事
一、今般私共村方小前之もの共、参会致し候所、入御聴連御廻村之上、其始末御糺し有之候処、素より党ヲ出願致義ハ毛頭無之候得共、社中ニ相漏候村々ハ難据置抔ト、無屋へ廻達も怖レ無維と沼村原中江集リ、合談候段申上候ニ付、御被申渡候は御維新之折柄、言路被開何事ニ不限無忌憚申上旨兼而御布令も有之且幾重ニモ被救候御主意ニ候得は、村々に於テ願向等有之候ハバ、神妙ニ惣代之者ヲ以テ可申上候。徒党は不容易事ニ候得は、以来何様ノ廻状等到来候とも決シテ動揺仕間敷は勿論、風来ノ廻状継ギ来リ候得は留置、早速其段御役所へ御訴可申上候。若相背キ廻状ニテ無余義罷出候抔申出候族有之候ハハ、厳重ニ御取調とも相成可申候間、村役人ニ於テモ無油断取締筋相弁へ、心得違えもの無之様精々小前共へ教諭可致候。若不相用者有之候ハハ、其段御訴可申上候。小前ニ於テハ村役人の差図ニ随ヒ不慎之挙動無之様第一生業相励可申候。右被申渡之趣一同承伏奉畏候。不罷出もの共へは、不洩様篤と可申通旨是又被御申渡承知奉畏候。因テ御請ケ証文差上申処如件。

   明治二巳年十一月十九日
      御支配所 野州那須郡
             中居村  八木沢村 福原村
             大神村  上沼村  滝之沢村
             青木 若目田村 小種島村 三色手村
             三斗内村 鷹巣村  片府田村
             荒宿村  上蛭田村 下蛭田村
             鹿畑村  小川村  浄法寺村
             倉骨村  宇田川村 蛭畑村
             下奥沢村
             右村々役人
              小前惣代
                  連印
   聴訟掛リ
       野村権大属 殿

(『大田原市史』宇田川文書)