5 明治十年頃の農産物の生産について

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 各戸長役場では毎年その地区の長産物の生産高を知事宛に報告した。
 明治十・十一・十二年の村内各村々の生産高、及び明治二十四年頃の稲作指導に関する栽培試験成績表、同じく三十八年四月、知事より各村長宛に発せられた指導要項を載せた。苗代の稗とりを怠ると拘留又は科料に処すというきつい達しであった。
 大正五年二月には、御大典記念(大正天皇御即位)の栃木県農会主催による産米品評会が宇都宮において行われた。湯津上村からも三五名の入賞者を出した。
明治十年四月十四日調議決区長、惣代、戸長、担当人一同相揃第六拾参番模範収穫配賦反当表
水田
大豆田村三拾六町九反五畝弐歩米 三百八十壱石〇八升壱合三勺壱反ニ付 壱石〇三升六合七勺
小船渡村六町九反九畝廿歩〃 五拾五石四斗三升六勺〃    七斗九升弐合三勺
狭原村三拾三町壱反五畝歩〃 弐百〇七石〇九升壱合〃    六斗弐升四合七勺
湯津上村九拾四町壱反弐畝廿四歩〃 六百六拾七石五斗三升弐合弐勺〃    七斗〇九合弐勺
南金丸村七拾五町五反七畝十三歩〃 六百五拾三石四斗三升七合〃    八斗六升四合五勺
北金丸村七拾三町四反八畝十六歩〃 五百三拾三石九斗七升九合〃    七斗弐升六合七勺
余瀬村三拾弐町壱反壱歩〃 弐百七拾壱石壱斗三升八合七勺〃    八斗四升四合七勺
蜂巣村弐拾三町四反七畝廿一歩〃 百四拾弐石九升弐合弐勺〃    六斗五合弐勺
桧木沢村弐拾九町九反壱畝十四歩〃 弐百壱石九斗〇弐合八勺〃    六斗七升四合五勺
寒井村弐拾七町弐反六畝十歩〃 百七拾九石六斗五升三合〃    六斗五升九合
向町五拾八町三反九畝廿二歩〃 五百三拾六石四斗四合四勺〃    九斗壱升八合八勺
田町拾三町壱反三畝十四歩〃 百六拾六石四斗八升四勺〃    壱石弐斗六升七合五勺
田合計五百四町七反五畝壱歩
米合計三千九百九拾六石弐斗弐升弐合六勺

陸圃
大豆田村八町廿五歩売麦六拾石弐斗〇五合四勺六才壱反ニ付 七斗八升四合三勺
小舟渡村七町弐反六畝十歩〃 五拾六石弐斗六升六合〃    七斗七升四合七勺
狭原村五拾九町五反四畝七歩〃 三百六拾七石七斗三升三合四勺〃    六斗壱升七合六勺
湯津上村五拾七町壱反六畝廿一歩〃 三百九拾弐石弐斗壱升六合四勺〃    六斗八升三合三勺
南金丸村五拾町八反弐畝十七歩〃 三百弐拾九石〇四升五合三勺〃    六斗四升七合四勺
北金丸村五拾九町八反九畝弐歩〃 四百三拾石八斗五升三合四勺〃    七斗壱升九合四勺
余瀬村弐拾九町六反八歩〃 弐百弐拾石弐斗七升三合四勺〃    七斗四升四合壱勺
桧木沢村三拾弐町壱反六畝廿五歩〃 弐百四石三斗三升三合〃    六斗三升五合
寒井村五拾六町四反七畝十六歩〃 三百六拾四石六斗六升壱合弐勺〃    六斗四升五合七勺
蜂巣村弐拾町五反八畝五歩〃 百弐拾六石壱斗弐升四合四勺〃    六斗壱升弐合七勺
向町四拾弐町八反壱畝壱歩〃 弐百七拾壱石弐斗八升九合壱勺〃    六斗三升三合七勺
田町拾三町弐反九畝九歩〃 百八石四斗三升壱合〃    八斗壱升五合七勺
畑合計四百三拾七町六反弐畝廿六歩
売麦合計弐千九百三拾壱石四斗三升弐合

明治十年第三大区八小区那須郡蛭田村、蛭畑村、佐良土村、新宿村、片府田村、福原村、倉骨村、第四事務所
普通物産調
作物名反別前年比較
町反畝 歩町    町    
二九二、三六〇五
もち米三二、四八〇五
大麦四六、三九〇〇三、五〇〇〇
小麦五四、七八〇二七、〇〇〇〇
一、一三〇〇〇五、六〇〇〇
三三、三一一一
大豆二三、九八〇二五、〇〇〇〇
そば一、二五一二
小計五〇五、九四一三一六、一〇〇〇五、〇〇〇
 
作物名産額前年比較壱石ノ通価
石斗升合勺石    石斗升合勺円 銭厘
二七〇四、三四四八七四、四六五〇四、七六二
もち米二九六、五五七〇九、三八五〇五、〇〇〇
大麦三五八、一三〇〇二〇、二五〇〇一、八一九
小麦二四三、六二六三三八、〇七〇〇二、一二五
九六、〇五〇〇一一、二六〇〇一、一一八
二九八、九〇〇〇一、九七〇〇一、二五三
大豆一六四、二六八〇三四、二五〇〇四、五〇〇
そば八、二二〇〇二、六三一
小計四一七〇、〇九六一七〇、五五〇〇一一八、一〇〇〇二三、二〇八
(反別小計不合)

特有産物
一円ニ付一貫匁ニ付
〆  匁〆  匁〆  匁
実綿一、八七〇、〇〇〇四三〇四、〇〇〇、二五
葉煙草四、四九〇、〇〇〇一五、〇〇〇五、〇〇〇、二〇

    右之通物産取調候也
     明治十一年五月
       栃木県令鍋嶋幹殿
     副戸長
         萩原新平
 明治十一年那須郡蛭田村、蛭畑村、佐良土村、福原村、倉骨村、片府田村、新宿村事務所
普通作物表
作物名播種地反別前年比較
町反  歩町    
三二九、一二〇九三六、七七〇五
もち米三五、二一一八二、七二一五
大麦四九、八二〇八三、四二〇八
小麦六二、三二〇九七、五四〇七
一五、八五〇八四、五五〇八
五九、八二〇九二六、五〇二八
大豆三五、二二〇二一一、二四〇〇
そば一、五七〇八三一二六
小豆一〇、五八〇九一、〇二一五
小計五九九、一三一五九二、〇一二二
 
作物名産額前年比較壱石通価
石斗升 石  合石   
二、七四五、三八〇四一、〇二二金五円
もち米二七八、五九〇一七、九六七金五円廿五銭
大麦三三五、三五〇二五、七八二金壱円九拾弐銭
小麦二一二、二四〇三一、三八六金三円三拾五銭
九三、四八〇二八二金壱円廿五銭三厘
三二五、八九〇二六、九九〇金壱円廿五銭三厘
大豆一七五、五三〇八、三七八金四円五拾銭
そば七、七五〇四七〇金弐円七拾三銭壱厘
小豆七一、二五〇五三二金五円九拾五銭
小計四、二四五、四六〇
(反別小計不合)

特有産物表
作物名産額前年比較壱貫目
〆  匁〆  匁〆  匁
実綿一、七九五〇〇〇七五〇〇〇金四銭八厘
葉烟草五、二七〇〇〇〇七八〇〇〇〇金五銭
小計七、六五七〇〇〇七八〇〇〇〇七五〇〇〇金九銭

右之通物産取調候也
  明治十二年二月二十八日
      戸長 大野佐平太
 
栃木県那須郡長 藤田吉享殿
明治十一年栃木県特有物産表
那須郡小船渡村
品名産地作者種族産高売路金額盛衰及因由
葉煙草那須郡小船渡村平民百九拾七貫七百目管内及東京四拾壱円(壱〆目廿銭七厘六毛)
実綿七貫弐百八拾目自用費消弐円〇三銭八厘余(壱〆目廿八銭)
壱石三斗七円廿銭五厘(壱石ニ付五円五拾五銭七厘七毛)尋常
千弐百五拾弐枚管内拾七円廿八銭(壱枚壱銭三厘八毛余)

狭原村
葉煙草狭原村平民千七百弐拾八〆目四拾八円三拾八銭四厘
実綿拾七貫九百目自用五円(壱〆目廿八銭)
拾四石四斗管内八拾円(壱石五円五拾五銭余)尋常
刻煙草四百拾個管内及東京千二百八拾壱円廿五銭(一ケ三円拾二銭五厘)
梨子四千五百貫目岩城四百九拾五円(金壱円ニ付拾壱〆目)
製茶弐拾六〆目東京四拾五円五拾銭(百匁十七銭五厘)

湯津上村
葉煙草湯津上村平民壱万〇弐百九拾七〆六百目二千八百八拾三円三拾二銭余(一〆目廿八銭)
生糸三貫五拾目岩城九拾壱円五拾銭(三拾目ニ付金壱円)
刻煙草千弐百八拾四個管内及東京四千百七拾三円(壱個三円廿五銭)
楮皮六拾貫目管内三拾二円五拾銭(壱〆目五拾四銭余)
製茶弐拾五〆目東京廿七円五拾銭(百匁拾壱銭)
弐拾四〆目自用廿一円八拾二銭(壱〆目九拾銭)
実綿七拾九貫目廿二円拾二銭(壱〆目廿八銭)
胡麻五斗弐円五拾銭(壱石五円)尋常
弐石七斗五升管内拾五円廿六銭(壱石五円五拾五銭)
四百四拾束茨城廿二円(壱束五銭)
百駄管内拾円(壱駄拾銭―四束壱駄)
荏油五斗壱升拾七円八十五銭(壱升三十五銭)
下駄四個(壱ケニ付百束)管内及茨城拾五円(壱足三銭七厘五毛)
千弐百〆目管内及茨城廿一円三十二銭(一〆目壱銭七厘八毛)
材木茨城及東京拾五円廿五銭尋常

栃木県那須郡大田原町字北町神力稲試験成蹟表
土質壚土  試作人 安藤小次郎
反別壱畝歩 担当人 斎藤英林
品名量目代価月 日
米作用人造肥料壱貫五百目金弐拾八銭六月七日
木灰三升金九厘六月七日
生草三束金九厘五月三日
播種量壱合五勺
期日播種五月三日
移植六月七日
開花八月二十五日
収穫十月二十三日
収穫枡目籾壱升ハ玄米五合摺
重量玄米五合二百三十匁
藁量籾壱升ニ対スル二四九匁二分
播種ヨリ収穫マデノ人夫合計弐人六分整地人夫蒔付人夫移植人夫収穫人夫
十二月廿三日一番鍬二分五月三日下種壱分六月七日挿秧二分十月二十三日収穫五分
三月十九日二番鍬二分六月二十六日除草二分
四月三十日三番鍬二分七月四日仝二分
仝畦築壱分七月十八日仝二分
(種下シ以後土用迄)水廻五分
壱畝歩収穫籾七斗八升
本郡在来種ニ比シ増減ノ量籾三斗三升三合増
株ト株ノ距離一尺
一坪ノ株数及ビ一株ノ苗数三十六株植付二本但二本乃至三本ヲ挿秧スルモ妨ナカラン
播種法甞テ耕鋤シ置キタル苗代へ種子ヲ籠ニ盛リ四指ヲ以テ均一ニ散布ス
地下及ビ等級金二円七十七銭八厘管内拾壱筆ノ乙
(永山正樹家文書)
(安藤小次郎は那須郡長である。)

明治十二年分普通物産調
狭原村
米反別弐拾九町四反五畝弐百弐拾弐石四斗四升五合
もち米反別三町七反歩弐拾八石八斗六升
大麦反別八反九畝歩四石三斗三升
小麦反別拾壱町五反六畝歩三拾六石九斗九升
粟反別五反歩壱石弐斗
稗反別九町五畝歩弐拾四石〇五升
大豆反別三町九反七畝歩拾六石壱斗四升
そば反別九反歩弐石七斗

小船渡村
米反別六町三反五畝歩六十一石三斗三升九合
もち米反別六反歩六石二斗
大麦七反二畝歩四石三斗二升
小麦反別弐町六反八畝拾歩拾三石四斗二升
粟反別四反五畝拾歩一石五斗一升
稗反別弐町八反六畝九歩八石六斗
大豆反別壱町壱反壱畝歩四石五升
そば反別四反壱畝歩弐石三斗五升

備考(前掲試験成績表)
種子ハ兵庫県西揖取郡中島村ニ産ス、去ル明治廿年中始メテ之ヲ購求シ翌廿一年之レガ播種栽培ヲ試ムルニ草ノ生育頗ル善ク株数非常ニ倍〓(シ)スルモ兎角開花ノ期節ヲ知ラサルモノノ如ク、彼岸ヲ経過スル十日ニシテ漸ク花ヲ着クルニ至レリ、然レドモ時既ニ降霜ニ切迫シタルヲ以テ充分ナル成熟ヲ得ス、満田中最モ遽(ニワカ)ニ成熟シ形状正シク穂並ノ揃ヒタルモノヲ精撰シ辛フジテ一畝歩中僅ニ籾七合ヲ得タリ、翌廿二年其籾三合ヲ種子トシテ之ヲ二畝歩ノ地ニ播種シ愛護培養セシニ其生育前年ニ比スレバ稍速ニシテ彼岸前十四日即九月六日ニ於テ始テ開花セルヲ見ルヲ以テ乃チ其豊熟ヲ期セシニ豈図ランヤ同月十一日ノ暴風ニ遇ヒシカ為メ無残ニモ満田概シテ其穂ヲ白色ニ変セシム、依テ其中早熟ニシテ淡黄色ニ化セシ穂ヲ精撰シ籾一升ヲ得タリ、是亦昨年三合ヲ播種セシ処ニシテ初年ヨリ三ケ年ノ試作経歴ニヨリ始メテ本表ニ掲クルガ如ク頗ル好結果ヲ得タリ其耕作法及排水法等ハ地方ノ慣例ニ任セ別ニ斟酌セス茲ニ新旧種類ヲ比較スルニ其品位ハ中等ニシテ第一元種ノ枡量第二苗代ノ面積第三原肥人夫手間等ヲ減セルガ上ニ其収獲ノ多キヲ以テ見レバ蓋シ我々農業社会ノ最モ注意スヘキモノナリト信ス、即些少ノ現品相添本表御参考迄ニ申進候也
  明治廿四年一月 日
(永山正樹家 文書)