7 秣(まぐさ)場について

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 狭原村で明治六年九月に実地調査により作成した「地所一筆限悉皆取調帖」の中の秣場面積は左記の通りである。
  公有地反別八拾七町四反廿四歩
    内訳
  秣場八拾四町三反五畝廿四歩
  芝地三町五畝歩
  右者私共村方田畑屋敷其外無税地ニ至迄小前一同立合一筆限地押仕
  当今売買直段取調候処書面之通相違無之御座候以上
             第四大区七之小区
              下野国那須郡狭原村
               担当人
   明治六年九月         薄井平四郎
                  阿久津久三郎
                  舟山与重
                  高久三四郎
              用掛  遠藤彦四郎
   前書之通相違無御座候依て私共連印ヲ以此段申上候以上
               右之小区
                 副戸長 塚本忠信
                  〃  滝田幸一
                 戸長  土屋鼎之助
     栃木県令 鍋嶋幹殿
 
 明治六年、中野平周辺の村々で公有地秣場弐百六拾四町歩を測量し、境界をきめて地券の下付を願い出で、許可になり地券が下付された。
 狭原(前記)はこれには入っていない。
  字中野平
  一、秣場弐百六拾四町
            蛭畑村 新宿村 片府田村 倉骨村
            蛭畑村 佐良土村 湯津上村
           〆七ケ村入会公有地
右者私共村々秣場入会公有地前書之通取調候処相違無御座候間地券御渡ヒ下置度依而正副戸長奥印を以此段奉願上候以上

        第三大区六小区
         下野国那須郡蛭田村
            担当人 須藤四郎平
                蜂巣丈平
             同掛 平山市十郎
                蜂巣伊三太
                大野佐平太
           新宿村
            担当人 伊藤宇八
             用掛 渋井平十郎
           片府田村
            担当人 大久保幸平
             用掛 鈴木忠次
             〃  阿久津藤四郎
           倉骨村
            担当人 (欠)
             用掛 郡司七十二
           蛭畑村
            担当人 吉成喜十郎
             用掛 吉成慶安
        第四大区三小区
            那須郡佐良土村
              担当人 小林亀次郎
                  郡司定十
               用掛 佐藤清一郎
          第四大区七小区
            那須郡湯津上村
              担当人 斎藤隆
               用掛 佐藤善三郎
               〃  深沢惣吾
               〃  木村藤三郎
               〃  磯作十
 
  第壱号
   地券之証
下野国那須郡七ケ村之内字中野平
 壱番         那須郡蛭田村
 公有地           新宿村
一、秣場弐百六拾四町歩    片府田村
               倉骨村
               蛭畑村
               佐良土村
               湯津上村
  右検査之上授与之    右七ケ村入会
  明治六年十二月栃木県令 鍋嶋幹
          少属中野忠寛 受付
 
 明治十三年四月作成の湯津上村壱番地中野平官有草山を測量し、県の確認を得た。
  官有草山 清野帳
    那須郡蛭田村外八ケ村
  旧壱番
  字中野平
  第一番
     官有地
         蛭田村 湯津上村 蛭畑村
  一、官有艸山 佐良土村 倉骨村 片府田村
         新宿村 大豆田村 黒羽向下町
         右九ケ村入会
    竪 六百七間五合
           拾五万九千四百六拾八坪七合五勺
  イ 横 弐百六拾弐間
    竪 八百四拾八間五合
             四拾九万弐千三百七拾弐坪五合
  ロ 横 五百八拾五間
    竪 五百弐拾四間
             弐拾四万三千六百六拾坪
  ハ 横 四百六拾五間
    竪 四百七拾三間五合
               拾四万弐千五拾坪
  ニ 横 三百間
    竪 五百四間
               拾九万七千八百弐拾坪
  ホ 横 三百九拾弐間五合
   合 百弐拾三万九千三百七拾壱坪弐合五勺
      此反別 四百拾三町壱反弐畝拾壱歩
  右者当郡蛭田村外八ケ村入会官有艸山実測候所相違無之候也
      明治十三年四月
        那須郡蛭田村   同郡湯津上村
           改租担当人     改租担当人
            深沢政重郎     斎藤隆
            森嶋伊十郎     大宮金三郎
            蜂巣市重      木村藤三郎
            平山金十郎     五味淵利八
            須藤四良平     江崎宗三郎
           同郡蛭畑村      江崎兵蔵
            平山辰次郎    同郡佐良土村
            遅沢金次      郡司嘉蔵
            稲沢勘三郎     飯塚友之助
            吉成伊三郎     関谷佐吉
           同郡倉骨村      郡司梅次郎
            郡司勘四郎     小林亀次郎
            桜岡彦一郎     佐藤友吉
            郡司雄三郎     生田目新八
            郡司七十二     郡司定十
                      天沼忠助
                      郡司源五郎
           同郡片府田村    同郡新宿村
            大久保万次     伊藤米二
            鈴木忠次      伊藤宇八
            高野喜四郎     渋江義十
            大久保清一郎   同郡黒羽向下町
           同郡大豆田村     橋本五右衛門
            磯重兵衛      高橋徳右衛門
            高橋丈之助     黒田市良右衛門
            佐藤久助      津田広三郎
                      福田大〓
            右村々
              戸長  蜂巣伊造
              〃   深沢惣吾
              戸長  吉成伊十郎
              〃   石沢小平太
              〃   渋江平十郎
              〃   花塚善三
              〃   益子兼次郎
      本簿遂一確候也
        明治十三年五月
          栃木県七等属  権田等
(大野アイ家文書)




 金丸原は昔より周辺農家の柴木、採草地として重要な場所であった。「金丸原」の名称は陸軍の演習場になり、兵隊の宿舎金丸廠舎が設けられてから、原全体を総称した名称であろう。
 この広い野原の北部の金丸原飛行場の在った場所は「おうが原」と称した。これは「〓鹿(おうが)原」であり、金丸、奥沢、鹿畑の三村共用の野原の意であるとの説もある。
 湯津上村(大字湯津上)で明治十九年秣払下料として納入した一戸当りの金額は一ケ年前期三銭九厘、後期三銭八厘、各坪の共有分等もあり、後期分合計三円五十四銭八厘であった。
借用許可地反別料金調書
大字地番地目借用目的借用反別料金
一町歩当り総額
栃木那須湯津上狭原西山一二四八耕作七、三一二一五〇〇〇一一〇一〇
一二四八山林下草採取一〇二、一一七〇〇〇三〇六四七
合計一〇九、四二九三一六五七

 大字狭原において明治四十三年五月一日付にて、惣代高久金之助名を以て帝室林野局宇都宮出張所へ、次のような払下申請を提出して許可を得ている。
  大字狭原字山野外一字御料地
  一、生草参千弐百七束この代金参拾弐円七銭
 更に、大正三年四月一日付を以て、第十四師団経理部長大町豊五郎印の、大字狭原三百八拾弐番地総代高久金之助に対し、金丸原陸軍演習場の一部土地使用を許可する令書が届いた。
 それにより左の請書を提出した。
       請書
金丸原陸軍演習場ヨリ生スル雑草採取方御許可相成候ニ就テハ左記条款ヲ堅ク遵守シ決シテ違背仕間敷仍テ請書呈出候也
第壱条 雑草苅取箇所、反別及料金ハ別紙調書ノ通リトス

第弐条 払下期間ハ大正三年四月一日ヨリ大正四年三月三十一日迄トス

第参条 払下料金ハ納入告知書ニ依リ前納スルモノトス

第四条 払受人ハ其区域ヲ明瞭ナラシムル為当部ノ指示ニ従ヒ其周囲ニ境標ヲ設置シ爾後亡失毀損シタルトキハ速ニ之が補修ヲナスモノトス

第五条 払下期間中ト雖モ官ノ必要ニ依リ中途払下ヲ停止スルコトアルモ払受人ハ異議ノ申立ヲ為スコトヲ得ズ

第六条 払受人ハ雑草苅取ノ為メ若シ誤テ土地建物或ハ樹木等ヲ損傷シタルトキハ直ニ其旨金丸原演習場主管ニ届出テ而シテ之カ為メ生ジタル損害賠償ノ責ニ任スルモノトス

第七条 払受人ハ土地ノ現形ヲ変更スル等ノコト一切ナサザルコト

第八条 火災予防上ニ注意シ決シテ火入等ヲ為スコトヲ禁ズ

第九条 払下期間満了後猶引続キ払下ヲ請ハントスルトキハ其地演習場主管ヲ経テ満二ケ月以前ニ出願スヘシ

第拾条 雑草苅取其他ノ時期及方法等ニ就テハ演習場主官ノ指図ニ従フモノトス

  右御請候也
      栃木県那須郡湯津上村大字狭原三百八十二番地
 大正三年四月一日   払受人総代  高久金之助
   第十四師団経理部長 大町豊五郎殿

 金丸原に廠舎があり、そこに主管が居てこれらの事務をとり扱った。演習場(現在の中ノ原)の下草払下採取は金丸原周辺の各大字毎に行なわれ、このことは第二時大戦終戦時迄行なわれた。
 演習場の芝草は馬の飼料というよりは、厩肥として農家にとって重要なるものであった。軍馬用の干草も各大字毎に割当てられ、この廠(しょう)舎前の広場に運び納入し高く積み上げられた。
 大正六年度の狭原における雑草落葉払下げ代金は九十円八十六銭となっている。
 大字蛭田では、中ノ平の採草地も借り受け利用していたが、この外に佐久山町地内と小川町地内にまたがる官地を借用していた。この土地は往古より昭和初年迄つづいて利用してきたが、昭和初年に数名の個人に分割払下げられた。
 借受申請は毎年提出するのだが、大正十四年申請のものは次の如きものであった。
 大字蛭田伊藤勝吉外三十六名代理兼願人蜂巣仙六外弐名の出願で左の申請書を提出した。
 那須郡佐久山町大字福原=福原
                         御料地
  〃  那珂村(小川町)大字芳井=芝山後
  採取面積弐拾六町壱反七畝九歩
 一、生草参千壱百四拾束
     此払下代金 六拾弐円八拾銭
     此搬出期限 大正十四年十二月卅日限リ
 右大正十四年六月四日出願之趣許可致候ニ付左記ノ通リ心得ラルベシ
      大正十四年十月七日
         帝室林野局東京支局宇都宮出張所長
           帝室林野局技師  植松昌二
 現存の記録では大正二年より毎年毎に許可申請を出して、その都度許可になっているが、恐らく、明治年間よりこのような手続きをとったものと思われる。
 寛永年間からしばしば争論のあった中野山秣場はこの辺の土地であったものとも考えられる。
 
  軍用干草
 明治三十八年糧秣所に納入した軍馬用干草代金精算本村分は次のようであった。
   一、干草六百四拾五貫目(二四一八キログラム)
 これは、当初西那須野にて郡役所へ引渡した総貫数は七三五貫であったが、東京糧秣所にて引取った時には、前記の六四五貫となり、九〇貫の目減りが生じたものである。個数は一四七個で異動はなかった。この代金四拾五円拾五銭、壱貫目代金七銭宛、運賃諸雑費差引弐拾弐円五拾壱銭となり、これを当初の七三五貫に配分した。壱貫目代金三・七五キログラム当り六銭〇六毛となる。
 明治三十八年七月二日、杉井学時村長名を以て大字区長宛に出された軍用干草生産及購買に関する実施の方法として次のように記されている。
一、秣ノ標本ハ県庁及各郡役所ニ送付ス
二、秣生産上ニ付注意ヲ要スル事項
(イ)渾テ秣ノ草本ハ開花将ニ盛ンニシテ種子未ダ成熟セザル前ニ苅取ルヲ可トス

但「カヤ」「ススキ」ノ如キ硬質ノモノニ在リテハ開花期前ニ苅取ルヲ可トス

(ロ)成ルベク高燥ノ地又ハ南向ノ土地ニ生ジタルモノニシテ茎ハ短カク細ク軟ニシテ且ツ脆(モロ)キモノヲ可トス

(ハ)前年ノ枯草ヲ苅込マザルヲ要ス
(ニ)草根ヲ附着セザルヲ要ス
(ホ)甚シク短小ノモノハ不適当ナリ
(ヘ)塵埃土砂木葉等ハ混セサルヲ要ス
(ト)乾燥ハ種類ニヨリ二三日間ニ充分ナルモノト又ハ其以上ヲ要スルモノトアリ

其程度ハ茎ノ一部ニ際ヨリ切断シテ既ニ水分全ク去リタリト認ムルモノヲ可トス特ニ禾本科植物ノ内ニテ俗ニ葉草ト唱フル部類ノモノハ充分乾燥セザレバ醗酵ヲ起スオソレアリ

(チ)乾燥中露ニ濡レシメザルヲ要ス若シ驟雨等ノタメニ雨ニ濡レシメタルモノハ決シテ他ノ良品ト混ズベカラズ

(リ)蓄積中霜雪ニ犯サレサルヲ要ス(霜雪ニ犯サレシモノハ危篤ナル消化器病ヲ発ス)

(ヌ)色淡緑色ニシテ曇晴ナラザルヲ可トス黄色、紅色、褪色及黒色ナルハ宜シカラズ

(ル)香ノ佳香ヲ放ツモノヲ可トス黴臭ヲ放ツモノハ腐敗ノ徴ニシテ用ニ充タズ

(ヲ)味ハ和カニシテ糖味ヲ帯ビタルモノヲ可トス酸味アルモノハ宜カラズ

(ワ)野草ニシテ秣ニ適スル主ナルモノハ

ナルコビエ、キンエノコロ、アブラススキ、ハギ(軟キ部分ニ限ル)ヒエガイリ、オカルカヤ、ウシノシツペイ、ヤハズハギ、ノビエ(又ハイヌビエトモ云フ)、ネズミカヤ、ヤマアワ、スズメノヒエ、ケメヒシバ、ニワホコリ、ツルフジハカマ、スズメノチヤヒキ、サヤヌカグサ、イチゴツナギ、ツルマメ、スズメノヤリ、トボシガラ、アシボソ、カヤ(若キモノ良シ已ニ生長セルモノハ宜シカラズ)、セトガヤ、ウマコヤシ、ネツミノヲ、ハネカヤ、キツネガヤ、ミヤコグサ、カラスムギ、メヒシバ、ススキ(軟カキモノニ限ル)、フタバハギ(又ハナンテンハギトモ云ウ)、カゼクサ、ミソイチゴツナギ、クズノ葉、レンゲ草、ヤマガモチグサ、コブナグサ、ノハギ(軟キ部分ニ限ル)、コメツブウマヤコヤシ、ヌカボ、クサブシ、ヌスビトハギ(又ハヤブハギトモ云フ)、ナカバグサ、カラスノインドウ、メドハギ、ドヂヤウツナギ、シナカワハギ、カモヂグサ、スズメノインドウ、シャウジグサ

(カ)野草ニシテ秣ニ適セザル主ナルモノハ
ヘビイチゴ、バラ、ウド、スギナ、タデ、カヤツリ草、ワラビ、ゼンマイ、ミヅヒキ草、ウラジロ、シノブ、アザミ、イチゴ、ホヽヅキ、ヤマゴボウ、イヌゼリ、ヲニゼリ、シビトバナ、ヒガンバナ、オヲボコ、シソ、ヨモギ、ヲトコヨモギ、タンポポ、ミミナ草、ハコベ、マコモ、スモトリ草、シキミ、ドクウツギ、ウルシ、ヲモダカ、ウキグサ

等水辺又ハ湿地ニ生ズルモノ、其他厭ノ臭気アルモノ、茎ニ節アルモノ、並ニ刺毛多キモノ、及美麗ナル花ノアル草ハ避クルヲ可トス

三、荷造ハ藁繩ニテ縦横各二ケ所十文字掛トナシ堅固ニ結束シ束ノ量目ヲ五貫目と定ム但繩ノ量目ハ一束ニ付百五十目ヨリ多カラザルコト

四、価格ハ購買所ヘ運搬シ受渡シ完了迄ノ費用ヲ合セタルモノニシテ其価格ハ左ノ如シ

 一、壱百貫目(三七五キログラム)金七円以内トス
五、価格ハ前項ノ如クナルモ品質其他ニ於テ標本ニ適セザルモノアル時ハ左ノ標準ニヨリ検査ノ際数量ニ於テ割引ス

  一等品標本ニ適合シ前項ノ価格ヲ仕払フモノ
  二等品精撰減耗量トシテ一割以内ノ割引ヲナスモノ
  三等品精撰減耗量トシテ一割以上ノ割引ヲナスモノ