9 品川開墾(傘松農場)

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 湯津上村大字蛭田、及び大田原市鹿畑、倉骨地内の官有地を、明治十六年品川弥次郎と片岡政次が払い下げた。品川開墾と称し、明治十九年四月事務所を大字蛭田一、九八五番地に設置し、開墾に着手した。
 当時我国農界の権威、船津伝次平の次男井上平五郎を管理人として、その仕事に当らせた。
 明治二十六年十二月、片岡政次はその権利を品川に売り渡したので、品川の単独経営となったが、明治二十七年八月、平田東助との共同経営となり、明治三十二年平田に譲り渡し、以後平田の独立経営となったのである。
 灌漑用水は、那須疏水、蛇尾川用水、富士川用水を使用した。農場区内(品川、鹿畑、倉骨)の耕作者は明治二十九年二七戸、大正年間の末の頃六八戸、人口三七四人、昭和三年戸数七六戸、人口三八四人となっている。
 本農場に移住する者は、一戸に付分与地七反歩(七〇アール)とし十ケ年間無料貸与し、これに対する義務として、九ケ年間月二人の人夫を出すこととし、義務完了後は無償分与すること、開墾の目的を以て、借地を希望する者は、畑五ケ年、田は五ケ年~七ケ年間無料貸与し、期限後は小作料を払うこととした。
 明治二十三年、駒場農学校教員であった船津伝次平が来て、地質を調査し、燐酸の不足なることを調べ、骨粉、過リンサン石灰を施用し、良成績をあげた。
 明治二十七年、品川弥二郎の勧めにより、農場内に品川信用組合を設立した。現在の湯津上村農業協同組合の発祥である。場主平田東助は年々農場に来訪し、小作人に接し、指導奨励し農業の改善進歩をはかった。
 明治二十年那須疏水開通後、更に三十一年蛇尾川疏水竣工の結果、耕地整理を施行した。富士川用水は、明治三十年大字片府田地内蛇尾川より、蛭畑及び片府田の人達と共同で開さくした。
 昭和十年には、水田一一二町七反(一一、二七〇アール)、畑四〇町歩(四、〇〇〇アール)宅地三三、五九〇坪(一一〇、八四七m2)その他二二町二反(二、二二〇アール)、移住戸数八〇戸、人口五〇〇人位になった。
 傘松農場というのは、農場事務所の庭に、百余年を経た傘形の老松があったので名づけたのであるが、昭和二十五年頃、枯れたので伐り払われた。
 開墾前の山林は自然林八三町歩(八、三〇〇アール)あり、付近字民の燃料採取に供されていた。原野は一六五町八反七畝八歩(一六、五八七アール)を近接農民の馬匹の飼料、或は推肥資料として採草地に充てていたが、開墾後には、田一〇八町七反三畝一四歩(一〇、八七三アール)畑七二町九反(七、二九〇アール)宅地六町八反(六七、三二〇m2)山林三八町歩(三、八〇〇アール)計二二六町四反三畝一四歩(二二、六四三アール)となっている。
 小作料 田反当 上 八斗(二俵) 下 三斗 平均六斗(一、五俵)
     畑反当 上 四円  下一円五十銭 平均三円
     山林下草料 反当二十銭
 農場の事業としては、植林、桑樹の栽培試験、耕地整理、用排水路、道路の維持管理、小作人保護奨励に意を注いだ。
 小作貸与面積
   田、一〇八町七反三畝一四歩 畑、七二町三反歩
   宅地、六町八反歩      山林、三七町三反歩
 土地の貸与又は譲渡に関しては、一戸に付耕地宅地に適当なる所七反歩、山林五反歩を分与する条件であったが、明治二十七年他の土地を開墾し、小作したいとの希望者には希望の土地の開墾を許し、山林の分与を解約した。
  移住者の戸数、人口
    県別   戸数   人口
    兵庫    五   二四
    茨城    七   三六
    鳥取   一〇   五一
    富山    四   一九
    群馬    一    七
    栃木   四九  二四七
    計    七六  三八四
『栃木県史』

 農場管理人としては、井上平五郎のあと小川雄助、更に野村政次が継承した。
 農場主平田東助のあと嗣子栄二が継いだ。栄二は第二次世界大戦後、農地解放時より、夫人と共に農場に移り住んでいたが、昭和三十三年東京駿河台の自邸に引きあげた。在村十年余りであった。
 大正十二年八月二十日摂政宮殿下(今上天皇)が湯津上村に行啓あらせられ、当農場に於いて発動機を以ての米の調製、移出米の俵装の状況等の農作業をごらんになられた。当時の人々にとっては大へんな光栄と、感激したことと察せられる。
 昭和二年八月十六日には、閑院宮殿下が産業の視察に親しく御出になられ、品川上の台の耕地に立って広々とつづく桑園と畑地を視察された。
 移り変る世と共に、この場所も工場誘致の敷地として買収され、今は工場の建つのを待っている。
 農場事務所旧敷地の隅に傘松農場碑が建っている。

傘松農場碑

傘松農場碑
那須野之地古来称為不毛弥望数里黄砂白草絶不〓火、距今三十八年内務卿大久保公寄心於農政、視其可開発以起長久之利、勧募〓紳豪族仮地墾之既而公薨品川子爵以僚佐承公遺図、拮据竭力爾来請官出私財新墾者多田疇斯〓稲麦斯殖農商連〓邨荘相望、昔者荒索之象殆払地矣、而湯津上独儒於東南人〓敢染指品川子爵有慨於此乃卜地為請官開田業傘松農場是也、明治十六年起工相地燥〓高下従〓而区画募佃民土著就業男子墾耕相共女子紉綴相助皆如一家之努、爾来新田歳興戸口漸繁滋遂并比鄰地成一邨、名曰湯津上冒地名也、盖其地古石上郷那須国造所治農場監理処占地之形勝有一大老松枝葉偃盖如巨傘〓以字農場初子爵挙功謀余与効力相助既而子爵薨乃承担当農場終帰余永業而農場有今日頼武井男爵参画之力為多当永記不〓、若夫墾拓耕種之労則不可不以井上平五郎為称首矣二十七年為信用組合干時隣邨矢板亦同設相竝為関東地方模範、二十九年開龍尾富士川〓渠二年而工集後立養蚕伝習処、蚕桑之業自此開建文庫書誌焉、一郷子弟頼之設青年会嚮風励行為婦女会勤勉家政経理子女教養之務鳴呼那須国造没而来地之盛衰不知幾変迄今盖二千年而廃壌又漸興千古旧観庶幾可復矣、雖然剏業既三十三年夙夜勤奮畢生従事不遺余力而曠地猶多葢墾闢之不易如此後世子孫其可不念〓造之艱難務所以纉承祖功乎哉若夫時時来為見年穀初熟葉葉帯風露追先世之志想佃稼之労則於所以纉承祖功思過半矣、頃者掘新渠工已成廃土堆積因焉為小丘丘上立碑昭農場創興之終始以諗来裔
  大正五年五月法学博士子爵平田東助〓 早川頼元書
行啓記念碑
大正十二年八月皇儲避暑於那須公爵松方正義別業十一日命駕観国造碑、碑在古那須国造邸址帰路駐駕于東助傘松別業田園之状稼〓之労、盖出于勧農耕国本之盛旨東助不感激賦以記之、維歳之癸亥鶴駕駐那須古不遠尋碑郡東隅遠近伝盛事老幼拝道途宝車之所一レ過堵列挙歓呼秋陽将亭午屈駕臨草廬松下迎玉歩賜謁及妻拏餐畢乃奉導園東望故〓岡巒青一帯余一居彼郛進説寿永役善射穿扇枢畎畝出勇士名声長不枯乍聞歌唱起丁男交小姑声ニ互相応逐蝗一斉駆炎威正如燬終始玉顔愉恤民何惓ニ浸肌汗綴珠奨農養国本誰不仰遠謨願戍醇厚俗広見徳化敷宜剪除蔓莽心田蕪臨発容卑請親栽松一株執鍤手蔽土翠葉恩光紆豈啻甘棠比愛護与衆倶子孫宜珍重萬世誓渝更賜慇懃語〓衆慰労劬英風仰逾高徳音何藹如鳴呼郷父老此心当同余請永記今日以遍告其徒
 大正十二年八月内大臣伯爵平田東助謹記
                  早川頼元書 広群鶴刻


行啓記念碑

    井上平五郎旌善勒功の碑
 農場主品川弥二郎に懇望されて農場の管理人となった井上平五郎は、資性温厚にして堅実、全力を注いで事業の大成に尽した。
 皇太子殿下御来場にあたり、つぶさにその実績をご覧になられた。翌年官よりその功績を賞し、木杯を賜わった。
 碑文
傘松農場在野之那須高原南北延長一千五十六間東西五百五十間乃至二百間明治十八年品川子爵始開墾是地余亦賛其挙、至二十二年協力経営使井上君平五郎理其業既而帰于余之有、独力専弁四十年于茲君専心効力如一日、於是曠野変為沃壌荊榛化為禾稼、加之設産業組合励貯金導子弟以超于善然而其処事諄悉周密無復遺算、農場之有今日実其功也、君本氏船津老農伝次平第二子出嗣井上氏、資性温厚持操堅実幼而好学不湏督励旁力役以助家計、夙有産興業之志勤倹持身人所堪能堪之甞自創製測地器其管理農場自期大成勤励弗怠以収其効非為人謀而忠曷能如此、大正十二年八月皇太子臨農場台覧称旨明年二月官賜木杯以賞之不亦栄乎頃者有志胥謀将樹石以伝其功業於無窮来請文於余鳴呼子之竭力開墾朝夕於斯不復〓他其詳具農場記念碑今撮其大者述之以志余之喜且使後人有所効法 〓
 大正十三年五月従二位勲一等伯爵平田東助〓并篆額早川頼元書


井上平五郎碑