この場所、およそ一五〇間(二七一メートル)一間(一・八一メートル)の費用を三分とみて三七両弐分、これを八ツ半に割り、三ツ半は上蛭田村で負担、残る分二二両と三七二文を下蛭田村で負担することとして、来春の用水期までに、水の揚るようにしなければならないので御見分の上宜しくお願いしますとの願書を下蛭田村の名主、組頭、村惣代たち一二名連名で、嘉永三年九月二十八日付で下蛭田村五給五人の領主に提出した。
(蜂巣英夫家文書)
現在の中蛭田は当時下蛭田村に入っていた。これによって現在の下郷用水の隧道が、この年に掘られたものかどうかは明かではない。
明治三十六年三月七日下郷用水隧道開さく費割立帳によると、工費七一円六二銭三厘、隧道長サ四〇間(七二・四メートル)窓一間三尺(二・七一五メートル)二ケ所合計四三間(七七・八三メートル)一間に付一円六六銭六厘、外雑費合計九三円六七銭三厘、反別二七町八反九畝〇一歩、一反に付三三銭六厘とある。
大正三年夏、大洪水あり用水引入堰押し流され、片府田字淵ノ上、鈴木章所有一三一四番地より引入れ、同六六番、六五番の尻迄、新規隧道五〇間(九〇・五メートル)を通じた。
現在は巻川土地改良区に含まれている。