13 片府田用水(富士川用水)

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 往昔、片府田村は水に恵まれず、水田は上郷には無く下郷にあるのみであった。明治廿六年二月の水道開さくの碑の寄付募集の趣意書によると、鈴木助左衛門が蛇尾川より水を引き、水田を造成することを思いたち、水路の計画、測量等を考究、苦心の末七ケ年の後工事可能との結論を得、吉成文平にはかり、剛毅なる文平は大いに感激賛同し、更に村人一同の協力を得て評議一決した。
 領主である将軍徳川家茂の代官山内源七郎に請願し、許可を得て、元治元年三月着工した。元治二年四月工事竣工、工事費およそ金一三〇〇有余円也とある。
 この、明治廿六年の建碑計画はどうだったのか、寄付金も集まり(六五円五〇銭)もち米も四斗余集まったのだが、現在神社境内に建つ「潤沢四疆」の記念碑は、大正六年十二月建立である。記念碑には元治元年甲子年三月竣工となっている。
 記念碑は明治二十六年計画のものと同型である。明治三年その余水を新宿にも分ち、同十年には水田用にも分けた。更に同二十八年蛭畑、品川へも分けることになり、末流は佐良土迄も注ぐことになった。
片府田用水記念碑
      栃木県知事正五位勲四等平塚広義題額
潤沢四疆
下野国那須郡湯津上村大字片府田ハ往昔如来堂村と称シ徳川幕府直轄ノ地タリ、蛇尾、箒の二流其ノ西南を繞(メグラ)セドモ地勢高燥ナルヲ以テ水利ニ乏シク、唯限リアル井水ヲ以テ日常ノ用ニ供シ自然ノ湧水ヲ以テ纔(ワズ)カニ水田ノ灌漑ニ充テシノミ、故ニ一朝旱魃ニ際スルトキハ水流涸渇シ闔郷飢餓ニ苦シムヲ免レズ、文久年間郷人鈴木助左衛門、吉成文平大ニ之ヲ憂ヒ率先シテ水路開鑿ノコトヲ計画シ、大久保清左衛門、阿久津藤右衛門、鈴木介之丞、大久保幸左衛門、鈴木忠兵衛、高野喜四郎、鈴木善三郎、鈴木久助等ニ議ル、衆大ニ其ノ挙ヲ賛ス、是ニ於テカ之ヲ郷民ニ説キ其ノ賛同ヲ得テ測量著(ママ)手ス、当時是ニ関スル知識甚ダ幼稚ナリシヲ以テ其ノ苦心実ニ名状スベカラザルモノアリキ、而モ郷民一致協力シテ事ニ従ヒ晨夜拮据スルコト三歳其ノ分水ノ源ヲ蛇尾川ニ求メ丘陵ヲ貫キ岩石ヲ穿チ樋ヲ埋メ〓ヲ通ジ、元治元甲子年三月遂ニ能ク其ノ工ヲ竣ヘタリ、水路ノ延長二千八百二十二間工費金七百五十五両永銭若干緡(ミン)ナリト云フ、然レドモ其ノ工事未ダ完全ナラズシテ通水意ノ如クナラザルモノアリ、爾後修補ヲ加フルモノ数回明治二年ニ至リ始メテ予期ノ成功ヲ告ゲ漸クニシテ灌漑上復タ違憾ナキヲ得タリ、越エテ明治三年隣郷新宿ノ人渋江喜一右衛門等ノ尽力ニヨリ其ノ余水ヲ分チテ新宿民ノ常用水ニ供シ明治十年又其ノ田ニ灌漑ス、明治二十八年更ニ蛭畑ノ請ヲ容レ其ノ溝渠ヲ拡張シテ之ニ漑ギ、末流延イテ佐良土ヲ潤ス、水路縦横四時滾々トシテ歇マズ、是ニ於テカ郷民始メテ其ノ生ニ安ンズルヲ得タリ、且新タニ開田スルモノ漸次多キヲ加ヘ其ノ恩賚(ライ)ニ浴スルモノ三百有余町歩ノ多キニ達ス、而シテ昔日荒蕪ノ地今ヤ変ジテ沃土肥田ト化シ満目禾穀ノ穣々タルヲ望ムニ至ル、鳴呼往年力ヲ此ノ水路ノ開通ニ効セル諸氏ノ功ヤ洵ニ偉ニシテ其ノ徳沢ノ及ブ所亦大ナリト謂フベシ、郷民其ノ遺徳ヲ追尚シ碑ヲ建テテ之ヲ不朽ニ伝ヘントシ来リテ文ヲ余ニ需ム、余乏シキヲ本郡長ニ承クルヲ以テ誼辞スベカラズ、乃チ其ノ事蹟ノ梗概ヲ叙スルコト爾リ、後世此ノ碑ニ対スル者其ノ水利ノ便ノ能ク此クノ如クナル所以ヲ考ヘ益々之ガ維持保存ニ努ムルアラバ其ノ恩徳ヲ記念スルノ意義始メテ全シト謂フヘキ歟
  大正六年十二月
       那須郡長従七位 富田美次郎撰
        〃 書記   川上源橘書


潤沢四彊の碑(片府田用水)