14 蛭畑水路記念碑

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 右記の片府田用水を蛭畑に延長し、品川、佐良土にまでその恵みに浴せしめるに至ったことについては、蛭畑に在る水路記念碑に記されている。
 蛭畑はもともと水の不足な土地であった。当時、吉成兼太郎、吉成伊三郎、吉成泰一郎、平山友吉、遅沢長十、遅沢清六郎、長谷川又吉等片府田へ交渉して分水の相談がまとまり、明治二十九年四月工事を起し、二ケ年後の明治三十一年四月用水路が完成した。これを富士川用水と名づけた。延長五〇〇〇余間(九キロメートル余)、費用八〇〇〇余円、これにより蛭畑地内の灌漑田、六〇余ヘクタール、品川地内二〇ヘクタール、佐良土地内新田一〇余ヘクタールを潤すことになった。更に原野荒蕪地等も水田化し、実に一七〇ヘクタールに達した。
 水路記念碑
      栃木県知事正五位勲五等岡田文次篆(テン)額
下野国那須郡湯津上村大字蛭畑境内田多甌〓(オウル)灌漑唯僅有崖間〓泉(キセン)窪地瀦(チヨ)水而己、盛夏水流常涸渇争論無息、古来屡有鑿渠之議而不果、邑之豪右吉成兼太郎、吉成伊三郎、吉成泰一郎、平山友吉、遅沢長十、遅沢清六郎、長谷川又吉等、深憂農人艱苦与良田荒廃蛇尾川溝渠便灌漑以潤沢涸渇拓荒蕪而建境内安全之基経営多端劃策頗勗矣、同村大字片府田有一溝洫通于蛇尾川文久年間同地有志鈴木助左衛門等所創造也、乃謀諸其郷人終測量為設計得官許起土功広其溝洫延其流派其水量一半片府田新宿蛭田以通于蛭畑名称冨士川焉、此功実起明治二十九年四月三十一年四月竟成矣、有隧有〓(カケヒ)有埋填疏鑿架橋、延長五千余間費八千余円而蛭畑地域由潤沢得漑田六十余町支水灌品川墾田二十町未流漑佐良土新田十余町、鳴呼古来涸渇之地荒蕪之野一朝変為沢穣浸漑所及実達于百七十余町甌〓満篝汗邪満車其福利之所逮何唯一地方哉寔国家之冨源也矣、頃日有志者胥議欲碑録事以勧後人文於余々顧此挙也七人一志亘二年而功成恵沢遠敷農人謳歌真吾党栄也而余而承乏郡長何憚操觚労乎、則記其梗概且贊其功績
   明治四十五年一月
     栃木県那須郡長正七位勲六等 内藤雅楽助撰
     栃木県立大田原中学校教諭  渡辺留吉書


蛭畑用水記念碑