昭和十九年七月には、主要都市の国民学校三~六年の児童を、近郊農村や地方都市へ集団移動させる方針がとられ、地方に縁故のない者は、学校毎に集団疎開させた。本村では十九年八月末より二十年十月頃まで三小学校へ東京都本郷追分小学校児童約一七〇名がつぎのように分散疎開した。
湯津上小 男女約三〇名 威徳院
佐良土小 男女約八〇名 法輪寺
蛭田小 女約三〇名 頂蓮寺
男約三〇名 宝寿院
学童疎開の想出 石黒ミナ
東京都の学童集団疎開は太平洋戦争の非常措置の一つであって、東京の子供を敵襲から守るために教育に熱心な教師の集りである、青年教師団がまず考え出したものと聞いている。
当時の本郷区には一二の小学校があり、全部が栃木県の那須郡に受入れていただいた。そして湯津上村には追分小学校(現文京区向丘一丁目・東大農学部前)が割当てられ、佐良土の法輪寺湯津上の威徳院・片府田の宝寿院・蛭田の頂蓮寺に、縁故疎開することのできない三年生以上の子供がお世話になった。法輪寺以外は各三十名ぐらいの児童に教員一・寮母一が東京から附添い、現地で給食作業員一名をお願いする形で、法輪寺は児童数も教員数も多く、本部として全体の連絡に当った。期間は全部殆ど同じで、追分小学校は昭和十九年八月十九日から二十年十一月に亘った。
筆者は、頂蓮寺学寮に教員として初めから昭和二十年五月まで勤務したので、当時のことを二、三ここに記したい。
昼夜の別なき空襲と極端な食糧不足の東京とはいえ、子が親に別れて集団で疎開していくということには、出征兵士にも似る悲壮感があった。受入側はまた突然に住居と食糧とを縁もない者に分かつことになって、どんなにか困惑されたことであろう。双方の緊張と不安の中ではじまった集団疎開は、第一日の夜に子供たちが蚊に刺されて眠れなかったということが伝わると、翌日はお願いもしないうちに部落の婦人会の方が蚊帳を持って来てくださったということにも象徴される、村の方々の思いやりと援助をいただいて毎日一つ一つことが解決されていった。
入浴はお寺の一つの風呂では時間がかかって困るといえば、近くの数軒のお宅から入れてやると言っていただき、村で揃って餅を搗かれた日には、部落長が各戸から寄せられた切餅を届けてくださり、子供たちに「もの欲し気によそのお宅に行ってはいけません」と制してみても、毎日学校の帰りにお友だちの家に寄って、おやつをごちそうになっていたようであった。
西小学校の磯実義校長が、母世帯(頂蓮寺は住職が出征中でおくさんの遠藤伊勢代さんが一人でおられたので東京勢も全部女子)の学寮のお父さんのように、子供たちの面倒をみてくださった。弁当用の梅干の代りにシドミの塩漬をすることを教え、栗拾い遠足の前には、お寺の孟宗竹を切ってクリムキという物を作ってくださった。部落の中で疎開学寮の者が孤立することなく暮らしていけたのは、磯先生の親身のご斡旋によるものと思う。
作業員の今泉みきさん、おばさんと呼ぶには若い大野マサ子さんも、いつか寮母の仕事を手伝って、子供たちの着る物の洗濯や繕いをしてくださったが、器用な遠藤夫人の協力は一同の大いに感謝するところであった。また連絡員として、毎日四寮の間に物資や文書や人の心を届けてくださった蛭田在住の遠藤(新一)さんの音容も忘れられない。
本堂の広い畳敷の一隅にふとんを積み、簡単な物入れ棚だけを自分の領分とする生活にもなじんで、明るい顔をみせてくれる子供たちの元気さは大きな慰めであったが、東京から届いた手紙を読んで目を赤くしていた姿や、台風で落ちた未熟の栗の実をだいじに拾ってお母さんに送ると言っていた姿は、今も思い出すたびに涙が湧くのである。
公立の追分小学校は、昭和二十年四月一日から国立の東京第二師範学校附属追分小学校となり(隣接の本郷高等小学校が新設第二師範女子部に校舎を徴用されたため)やがてまた廃校になった。(師範学校が学芸大学になったための改廃)はじめの追分小学校の児童も職員も母校を失なう結果となったという事情もあって、大恩ある湯津上村に感謝の意を表わす機会もなく過しているのは申訳ない次第である。
当時の子供たちも今や壮年、人と馬が一つ屋根の下に仲よく住む湯津上の暮らしや人々の暖かさを心に深く蔵しつつ、社会に有用の働きをしているものと信じている。
石黒ミナ先生紹介
東京都の学童集団疎開は太平洋戦争の非常措置の一つであって、東京の子供を敵襲から守るために教育に熱心な教師の集りである、青年教師団がまず考え出したものと聞いている。
当時の本郷区には一二の小学校があり、全部が栃木県の那須郡に受入れていただいた。そして湯津上村には追分小学校(現文京区向丘一丁目・東大農学部前)が割当てられ、佐良土の法輪寺湯津上の威徳院・片府田の宝寿院・蛭田の頂蓮寺に、縁故疎開することのできない三年生以上の子供がお世話になった。法輪寺以外は各三十名ぐらいの児童に教員一・寮母一が東京から附添い、現地で給食作業員一名をお願いする形で、法輪寺は児童数も教員数も多く、本部として全体の連絡に当った。期間は全部殆ど同じで、追分小学校は昭和十九年八月十九日から二十年十一月に亘った。
筆者は、頂蓮寺学寮に教員として初めから昭和二十年五月まで勤務したので、当時のことを二、三ここに記したい。
昼夜の別なき空襲と極端な食糧不足の東京とはいえ、子が親に別れて集団で疎開していくということには、出征兵士にも似る悲壮感があった。受入側はまた突然に住居と食糧とを縁もない者に分かつことになって、どんなにか困惑されたことであろう。双方の緊張と不安の中ではじまった集団疎開は、第一日の夜に子供たちが蚊に刺されて眠れなかったということが伝わると、翌日はお願いもしないうちに部落の婦人会の方が蚊帳を持って来てくださったということにも象徴される、村の方々の思いやりと援助をいただいて毎日一つ一つことが解決されていった。
入浴はお寺の一つの風呂では時間がかかって困るといえば、近くの数軒のお宅から入れてやると言っていただき、村で揃って餅を搗かれた日には、部落長が各戸から寄せられた切餅を届けてくださり、子供たちに「もの欲し気によそのお宅に行ってはいけません」と制してみても、毎日学校の帰りにお友だちの家に寄って、おやつをごちそうになっていたようであった。
西小学校の磯実義校長が、母世帯(頂蓮寺は住職が出征中でおくさんの遠藤伊勢代さんが一人でおられたので東京勢も全部女子)の学寮のお父さんのように、子供たちの面倒をみてくださった。弁当用の梅干の代りにシドミの塩漬をすることを教え、栗拾い遠足の前には、お寺の孟宗竹を切ってクリムキという物を作ってくださった。部落の中で疎開学寮の者が孤立することなく暮らしていけたのは、磯先生の親身のご斡旋によるものと思う。
作業員の今泉みきさん、おばさんと呼ぶには若い大野マサ子さんも、いつか寮母の仕事を手伝って、子供たちの着る物の洗濯や繕いをしてくださったが、器用な遠藤夫人の協力は一同の大いに感謝するところであった。また連絡員として、毎日四寮の間に物資や文書や人の心を届けてくださった蛭田在住の遠藤(新一)さんの音容も忘れられない。
本堂の広い畳敷の一隅にふとんを積み、簡単な物入れ棚だけを自分の領分とする生活にもなじんで、明るい顔をみせてくれる子供たちの元気さは大きな慰めであったが、東京から届いた手紙を読んで目を赤くしていた姿や、台風で落ちた未熟の栗の実をだいじに拾ってお母さんに送ると言っていた姿は、今も思い出すたびに涙が湧くのである。
公立の追分小学校は、昭和二十年四月一日から国立の東京第二師範学校附属追分小学校となり(隣接の本郷高等小学校が新設第二師範女子部に校舎を徴用されたため)やがてまた廃校になった。(師範学校が学芸大学になったための改廃)はじめの追分小学校の児童も職員も母校を失なう結果となったという事情もあって、大恩ある湯津上村に感謝の意を表わす機会もなく過しているのは申訳ない次第である。
当時の子供たちも今や壮年、人と馬が一つ屋根の下に仲よく住む湯津上の暮らしや人々の暖かさを心に深く蔵しつつ、社会に有用の働きをしているものと信じている。
石黒ミナ先生紹介
先生は、戦後追分小学校から昭和小学校に転任、充指導主事の職にもあったが、その後本郷真砂小学校長に栄転された。現在は永年の教職生活を退き、悠々自適の生活を送っていられる。