戦争の勃発とともに、空襲に備えて灯火管制や消火訓練など、防空演習が実施されていたが、昭和十七年(一九四二)四月十八日、B25爆撃機一三機による初の首都空襲があった。損害は軽微なものであったが、うち一機は本県内に侵入して、西那須野駅東方数百メートルの畑中に爆弾一箇を投下して去った。このことは、本土は絶対安全との軍の言をうらぎり、人々に一抹の不安を与えたが、戦勝に酔う一般の国民には、つづいて起ったミッドウェー沖海戦の敗北や、ガダルカナル島の攻防をめぐる悲愴な戦況などは、全く知らされなかった。
昭和十九年十一月、B29の編隊による東京大空襲を始めとして、二十年になると本土上空の制空権は全く無にひとしくなった。昭和二十年七月十二日夜のB29による宇都宮大空襲は、市内焼失家屋八五八八戸、死者五二一名を数え、一夜にして県都は焦土と化した。本村の上空も敵機の跳梁にまかせ、村人は近くの金丸原や黒磯埼玉飛行場の爆撃を目のあたりにしながら、恐怖と敵愾心におののいた。そして空襲警報と同時に、老人や子どもは防空頭巾をかぶって、防空濠に退避することを日に何度か繰り返さねばならなかった。一方警報の合間を縫って、隣組や婦人会員のバケツリレーによる消火訓練や、本土決戦に備えての竹槍訓練が本気で行われていた。