第二節 各字の歴史(領主と石高)

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 湯津上村は、往古国造那須直韋提(あたいいで)が治めた当時(飛鳥時代)は国造那須氏の所領であったと思われる。
 中世においては、後の那須氏即ち、藤権守(とうごんのかみ)(天治二年・一一二五)の治下となり、それより那須資隆につづき、その子等那須与一兄弟(文治三年・一一八七)が那須の各地に所領せられた当時は、福原の那須氏に属したものであろう。
 即ち、那須五郎之隆福原に在り、与一没後は那須の総領を継いで一族を代表した。
 四郎久隆は、備中(岡山県)荏原の庄を領したが、片府田に住んだ。
 片府田城は後年佐久山に移ったと言われる。
 天正十八年(一五九〇)那須資晴、烏山を追われ、佐良土に移り、その子資景も福原に封ぜられたが、その時の秀吉の朱印状には、資景所領の中に、現在の村内の各村々の名が見える。
 徳川期における村内総石高は、四千九百三十八石六斗六升六合二勺であった。