千五十石五斗二升(貞享~慶応四年)。
元禄六年△坂本久之丞知行、七十六石三斗三升四合。
同年七月、△久世平九郎知行、九百七十四石一斗八升六合、以後相給にて、天保の頃は、△久世下野守(采地三千石)及び坂本吉十郎知行、幕末まで同じ。
元禄六年△坂本久之丞知行、七十六石三斗三升四合。
同年七月、△久世平九郎知行、九百七十四石一斗八升六合、以後相給にて、天保の頃は、△久世下野守(采地三千石)及び坂本吉十郎知行、幕末まで同じ。
昭和五年発行湯津上村連合職員会(三小学校)の「郷土研究誌」によれば、久世下野守は陣屋を当地におき、当村外九か村の行政事務を取り扱い、突棒、差手又(さすまた)、袖搦(そでがらみ)等の逮捕の武器を、陣屋の前に備えつけて、通行人をいちいち迅問したと言う。
陣屋は、現在の笹沼剛宅地、本陣は小林一彦(問屋)の家であった。年貢米千五十石は船十七艘で、佐良土河岸より江戸に送れりと言う、とある。佐良土河岸の持船は十七艘であった。
万延元年の文書には、河岸問屋小林与惣左衛門とある。廃藩置県後、久世家の長子久世右馬之介は、中学校を卒業し、十八、九才の頃佐良土小林彦七方(問屋)に寄食し、六、七年遊び、馬頭院安楽寺にて修業した後、亀久の安養院の住職となり、昭和三年秋没した。