3 蛭田

407 ~ 407
 蛭田は「広田(ひろた)」又は「平田(ひらた)」の転語で「蛭」は借字で虫の意味はない。「田」は水田と限らず耕地を言う。即ち、広く平らな処に開けた部落という意味と言われる。昔は下蛭田村(現在の中蛭田を含む)と上蛭田村に分かれていた。
明治二十二年四月町村制施行にあたり、上下合併して大字蛭田となった。
下蛭田村
五百十三石八斗四升五合(貞享~幕末)
元禄十年七月本多甚太郎百二石七斗六升九合、△中根九郎兵衛百二石七斗六升九合、△加々爪三五郎百二石七斗六升九合(幕末は加々爪左衛門)、△加々美源左衛門百二石七斗六升九合
△浅井伝八郎百二石七斗六升九合の五給

 天正十八年十月豊臣秀吉朱印状の、那須資景の知行所目録にある「大ほり」は下蛭田村の内にある。(現在の小字名大堀原)
 現在の中、上蛭田は関街道の道筋にあり、中蛭田に問屋があった。(大野好子宅)
上蛭田村
三百五十八石五斗六升六合
寛文の頃は天領。元禄十年△倉橋七兵衛、△桑山内蔵助、△酒井岩之助の三給知行。以後、幕末まで同じ。慶応年代は△倉橋三右衛門百十九石五斗二升二合、△桑山弁吉百十九石五斗二升二合、△酒井岩五郎百十九石五斗二升二合
明治十年一月の調査による戸数、下蛭田二十三戸、中蛭田十七戸、上蛭田三十戸である。