白河関は、岩代国(福島県)白河郡古関村大字旗宿の南方、関山に置かれたので、都からここに通ずる道を関街道という。
湯津上村を通る関街道の起源は古く、成務天皇の頃といわれる。
延喜式に載っている駅伝には、足利・三鴨・田郡(たごう)・衣川(きぬ川)・新田(にいた)・磐上(いわかみ、湯津上)・黒川(芦野あたり)とあり、駅には駅馬一〇匹が常備されてあり、駅長は長者とよばれていた。
荷物を運び人を乗せる駅馬は、普通伝馬と呼び、街道筋の村々から夫役として、人と共に徴発された。
新田(にいた)から、旧荒川村の鴻の山にきて、荒川の西、小白井を経て、上川井・志鳥・小川町の片平・三輪・恩田・梅曽・浄法寺を通り、箒川を渡って佐良土・磐上(湯津上)・南金丸・余瀬・蜂巣・檜木沢・寒井・稲沢・沓掛・芋淵(伊王野)・蓑沢・大畑・沓石・旗宿(白河関所)に達する道順である。
更に小白井から分れて、鹿子畑・金枝・軍沢・小郷野・上芳井・福原・片府田・笹原・鹿畑・南金丸・馬場坪を経て、余瀬で東街道と合したともいわれる。(参考文献『那須郡誌』外)
関街道は、このほかに、福原から蛭田を経る記録が多いし、蛭田には問屋もあった。
弘化三年(一八四六)河野守弘によって発刊された下野国史の地図には、鴻ノ山・鹿子畑・舟沢・沼畑・大沢・柳林・蛭田・豆田村(黒羽向町)・寒井・伊王野に通ずる道を関街道として載せている。
尚、栃木県史に収録された資料には、次の文書がある。
関街道と脇道
一、関道を罷通万荷物、貫(抜)損無二御座一様ニ馬方共ニ可二申付一候、若シ貫(抜)損付参リ候ハバ、其馬方ニ則付為レ返可レ申候、扨又宿ニて油断致、損表(ママ)請取候ハバ、其人急度埒明可申候事
一、関本通之送状参候ハバ、其状次第ニ荷物取かわし可申候、若又新道ヘ之送状参候共、跡々相定之通、新道ヘハ一円荷物越申間敷候事
右之条々相背もの候ハバ、連判之もの出合、荷宿為レ致申間敷候、為二後日一如レ此候、已上
明暦三年(一六五七) 板戸 平右衛門
酉十月廿三日 五兵衛
石善 源太郎
原 清左衛門
伏久 五兵衛
金枝 孫左衛門
庄吉
鴻野山 平七
左吉
鹿子畑 佐右衛門
弥五左衛門
福原 弥二右衛門
勘兵衛
蛭田 三郎右衛門
一、関道を罷通万荷物、貫(抜)損無二御座一様ニ馬方共ニ可二申付一候、若シ貫(抜)損付参リ候ハバ、其馬方ニ則付為レ返可レ申候、扨又宿ニて油断致、損表(ママ)請取候ハバ、其人急度埒明可申候事
一、関本通之送状参候ハバ、其状次第ニ荷物取かわし可申候、若又新道ヘ之送状参候共、跡々相定之通、新道ヘハ一円荷物越申間敷候事
右之条々相背もの候ハバ、連判之もの出合、荷宿為レ致申間敷候、為二後日一如レ此候、已上
明暦三年(一六五七) 板戸 平右衛門
酉十月廿三日 五兵衛
石善 源太郎
原 清左衛門
伏久 五兵衛
金枝 孫左衛門
庄吉
鴻野山 平七
左吉
鹿子畑 佐右衛門
弥五左衛門
福原 弥二右衛門
勘兵衛
蛭田 三郎右衛門
明暦四年(1658)五月原方道・奥州街道・関街道道筋略図
高根沢町花岡「岡本家文書」『栃木県史』より
元禄八年(一六九五)関街道筋と、奥州街道筋との問屋の間に、運送荷物の取り合い紛争があり、訴訟を起したが、その問屋の中に、福原村と蛭田村の問屋が入っている。
乍恐以書付御訴訟申上候事
一 奥州より江戸往来之道筋、本道・関海道・原方海道と申、白川より三筋御座候て、先年より万荷物上下仕候、然所ニ、本道喜連川より白川迄八ケ所之問屋共、松平大和守様へ御訴訟申上候由にて、籏宿へ罷出候登り荷物御留被遊候ニ付、関海道馬継数ケ所迷惑仕候事
一 関海道之義は、古来より之道筋御座候、其上順路能、駄賃銭も下直に御座候故、商人も望罷通り候、関東より奥州へ之下り荷物も江戸より舟積仕、境河岸・乙女河岸へ着船仕、関海道へ罷出、於爾今、籏宿より白川へ付送り申候事
一 御大名様方御通り被遊候節は、関海道筋之村々御用助人馬、本道より申参次第ニ罷出相勤申候、其上鍋掛ケ洪水之時分は、御大名様方其外江戸上下之御家中御荷物、黒羽舟渡へ御懸り、関海道御通り被遊候事
一 先年より白川御代々之御城主様方、籏宿へ罷通り候荷物御留被遊候事無御座候所ニ、此度登り荷物御留被遊候、依之当七月中関海道筋問屋共、白川御役人衆中へ御訴訟申上候得共、御承引不被成候故、馬継之村々迷惑仕候事
一 先月廿三日より御当地へ罷登り、松平大和守様御屋敷へ数度御訴訟申上候得共、御承引不被遊候ニ付、乍恐御訴訟申上候、以御慈悲先年之通り、白川より籏宿へ之登り荷物御通し被下候ハバ、難有可奉存候、以上
奥平熊太郎領
板戸河岸
元禄八年亥九月十四日 同領
石末村
御奉行所様 大田原和泉守領
鴻野山村
下嶋甚右衛門御代官所
鹿子畑村
同 御代官所
福原村
同 御代官所
蛭田村
大関大助領
余瀬村
同領
黒羽町
同領
寒井村
外山小作御代官所
伊王野村
大関大助領
蓑沢村
右拾壱ケ所之内
訴訟人
伊王野村 伝右衛門
黒羽町 茂右衛門
鹿子畑村 八兵衛
鴻野山村 伊兵衛
一 奥州より江戸往来之道筋、本道・関海道・原方海道と申、白川より三筋御座候て、先年より万荷物上下仕候、然所ニ、本道喜連川より白川迄八ケ所之問屋共、松平大和守様へ御訴訟申上候由にて、籏宿へ罷出候登り荷物御留被遊候ニ付、関海道馬継数ケ所迷惑仕候事
一 関海道之義は、古来より之道筋御座候、其上順路能、駄賃銭も下直に御座候故、商人も望罷通り候、関東より奥州へ之下り荷物も江戸より舟積仕、境河岸・乙女河岸へ着船仕、関海道へ罷出、於爾今、籏宿より白川へ付送り申候事
一 御大名様方御通り被遊候節は、関海道筋之村々御用助人馬、本道より申参次第ニ罷出相勤申候、其上鍋掛ケ洪水之時分は、御大名様方其外江戸上下之御家中御荷物、黒羽舟渡へ御懸り、関海道御通り被遊候事
一 先年より白川御代々之御城主様方、籏宿へ罷通り候荷物御留被遊候事無御座候所ニ、此度登り荷物御留被遊候、依之当七月中関海道筋問屋共、白川御役人衆中へ御訴訟申上候得共、御承引不被成候故、馬継之村々迷惑仕候事
一 先月廿三日より御当地へ罷登り、松平大和守様御屋敷へ数度御訴訟申上候得共、御承引不被遊候ニ付、乍恐御訴訟申上候、以御慈悲先年之通り、白川より籏宿へ之登り荷物御通し被下候ハバ、難有可奉存候、以上
奥平熊太郎領
板戸河岸
元禄八年亥九月十四日 同領
石末村
御奉行所様 大田原和泉守領
鴻野山村
下嶋甚右衛門御代官所
鹿子畑村
同 御代官所
福原村
同 御代官所
蛭田村
大関大助領
余瀬村
同領
黒羽町
同領
寒井村
外山小作御代官所
伊王野村
大関大助領
蓑沢村
右拾壱ケ所之内
訴訟人
伊王野村 伝右衛門
黒羽町 茂右衛門
鹿子畑村 八兵衛
鴻野山村 伊兵衛
(『栃木県史』)
湯津上村の昔の略絵図によると、佐良土より黒羽への道に「烏山城下ヨリ奥州筋エ之脇往還」と記してある。(永山正樹資料)又関街道とも称したようである。
弘化三年(一八四六)河野守弘によって書かれた下野国誌所載の地図によると「宇都宮ヨリ板戸鴻ノ山鹿子畑蛭田黒羽寒井伊王野蓑沢旗宿白川ト通ルハ古ノ関道なり」とある。