2 秀衡(ひでひら)街道

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 関街道は、藤原秀衡の全盛時には、秀衡街道とも称され、これも時代によって移り変りがあるようである。大田原市南金丸地内には、秀衡窪という地名があり、秀衡山という呼称の丘もある。
 下蛭田には秀衡街道と称した道路跡があり、今は耕地になっているが、柳林・刈田・高畑・鹿子畑の方向に通じて、下野国誌所載地図の関街道と合致する。

下野国誌所載地図那須郡の図部分

 黒磯市東那須野地内、沼野田和・大原間・方京付近には鎌倉道という道跡があり、南那須には将軍道の名称が残り、鴻ノ山・鹿子畑・志鳥より北へ向う。
 いずれにしても北へ通ずる何本かの道は関街道であり、ある時代には秀衡街道と称したようである。
 のち、天正年間(一五七三~一五九一)に至り、宇都宮・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・寄居・白土を経て、白河に通ずる街道ができた。これは奥州街道である。後年明治初年になって陸羽街道と称される。これが正街道となったのは、慶長九年(一六〇四)ともいわれているが、一説には寛永四年(一六二七)あるいは同七年関街道を改めて、奥州道中を開いたともいわれている。