4 那珂川の交通

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 那珂川河岸場(かしば)が始まったのは、明暦元年(一六五五)といわれている。
 河岸場は、黒羽河岸に上河岸・下河岸とあり、上河岸は九兵衛、下河岸は源兵衛が、天明の頃(一七八〇年代)営業をしていた。その頃、上河岸持船三十六艘とある。
 天保元年(一八三一)上河岸二十六艘、下河岸二十八艘、船の形は小鵜飼船(こうかいせん)という。(米三十俵積)上下合せて六十艘前後の船数があった。
 佐良土にも河岸場があり、江戸への年貢米、木材等を運送した。持船は十七艘であった。
 沿岸河岸場は黒羽を起点とし、矢倉・佐良土・久那瀬・烏山(六里)・野上・生井とつづき(中略)水戸(二十里)・中湊(二十二里)迄運航した。中湊から枝川を登り、船にて涸沼(ひぬま)べりの海老沢(二十七里)迄のぼった。荷物を積替え北浦を経て関宿へのぼり、それより江戸へ運ぶ。
 明治末期から大正の初期迄、帆船の姿が那珂川に見られたといわれている。
 運送の荷は、米穀類・酒・醤油・水油・煙草・柏皮・板・貫板(ぬきいた)等が主なものであった。
 中湊からは、魚などを運んだ。板・貫板・用材等の荷は、鵜飼船の外筏(いかだ)にも組んで川を流した。
(『栃木県史』)

 万延元年(一八六〇)に、黒羽下河岸と佐良土河岸の間に紛争が生じた。佐良土河岸は、万延年中の頃、源兵衛という者が問屋を営んでいた。明暦に開通されてより二百余年後である。
 寛文九年(一六九九)道中奉行高木伊勢守の時に取り決めがあり、那珂川佐良土河岸より上流への登り荷物は、すべて佐良土河岸にて陸揚げし、陸路を運送することになっていた。万延元年十月、黒羽下河岸問屋万蔵が、黒羽藩台所用の塩一八俵を、強引に船積みのまま川を登らせた。更に翌日も一七俵の塩を、船積のまま川を登らせようとした。
 万蔵と、その使用人清吉、荷物の宰領三田与治左衛門、羽石清衛門が河岸場へ現われ、この塩も船積のまま運ぶと断ってきたので、従来のきまりを破られては困ると言ったが、ここでも強引に川上へ船を登らせた。
 矢倉河岸の下まで追いかけ押さえようとすると、清吉が脇差しを引抜いて振りまわし、佐良土の百姓吉平の着物の上から突き刺した。幸い着物が厚かったので怪我はなかったものの、そのまま船を登らせて了った。
 佐良土側では、黒羽町の役人へ届けて掛け合った。その争いの記録であるが、簡単に話の結論はつかなかったようである。
 大関能登守家臣大沼権之進からの返書の回答の内容は穏やかなものであり、円満に話がきまりそうにも思われるものだが、解決の資料は目下のところ発見されていない。
 佐良土河岸では安政三年(一八五六)、紀州様御用材の川下げを扱った。また同六年より三ケ年に亘って、水戸様御用材の川下げを扱った。
 洪水により用材が流され、河原に打ちあげられるような時には、残らず引揚げ、筏に組んで運送した。そんな時には広い場所が必要であり、隣地湯津上村の中川原内の荒地を、双方の役人の話し合いで借用していたが、どういうわけか、黒羽下河岸万蔵が湯津上村の役人達に、故障を入れて貸させないようにさせたりしていた。黒羽河岸にとって、佐良土河岸は邪まな存在であったのかもしれない。
 万延元年十一月廿四日「大関様エ差出控」として残っている資料(佐藤喜一郎家文書)によると
   乍恐以書付奉願上候
 御知行所野州那須郡佐良土村川岸問屋、并ニ村役人一同奉申上候、当村之儀ハ、最寄七ケ村エ御継立御伝馬役相勤メ候村方ニテ、宿場同様ニ有之候得共、助合等も不相願、当村限り人馬御継立仕る義は、当村ニ川岸場有之、問屋共持船拾七艘有之、往古より諸家様方御廻米運送方被仰付、其外最寄村々ニも、川岸場船持共有之候得共、下り荷物運送仕候迄ニテ、登リ荷物ハ当村川岸場ニテ陸揚いたし、当村人馬ヲ以テ継送来リ候間、右駄賃銭之助合ヲ以テ、村方御伝馬継立御用相勤候様、寛文九酉年(一六六九)、道中御奉行高木伊勢守様より被仰渡、奉畏右仰渡之趣今以テ堅ク相守罷在候故、当村川岸場より川上之方ニも、川岸場船持共多分有之候得共、右下リ荷物運送いたし候のみニテ、従令登荷物積来リ候テも、当村川岸場限ニテ陸揚いたし、夫々陸附運送仕リ、当村川岸場より川上之方エハ、一切船積不致仕来之段ハ、川上川岸場、黒羽町其外川岸船持共ニおいても相弁え、数年来登リ荷物ハ、当村より川上エ積通し候例一切無御座候、既ニ安政二卯年中、黒羽町百姓九兵衛ト申者、当川岸積問屋与惣左衛門持船拾七艘之内三艘借受、黒羽町ニおいて稼方仕度旨無心有之、貸遣候筈、示談後届候節、黒羽町役人問屋年寄共より、対談書文取有之、右対談書ニも、登荷物之儀ハ先年之通リ、当川岸より川上エ引通申間敷旨、確ニ議定いたし、役人共調印仕置候義之処、当十月七日黒羽様御台所御入用之由、塩拾八俵川下野上川岸問屋七郎平より、当河岸源兵衛エ送状相附才料(宰領)壱人附添積登而来候処、黒羽川岸万蔵ト申者参リ合せ罷在、当川岸支配人方エ申出候ハ、此度積登リ来候塩ハ、領主御台所御入用品ニテ、川岸荷揚不致黒羽川岸迄積登候間、左様相心得呉レ候様断リ有之、驚入登荷物之儀ハ、当川岸限リ川上エハ積登セ不申候ハ、古来ノ仕来ニテ、是迄積登セ候例無之、決シテ不相成段及断候処、不法之義申て取敢不申ニ付、支配人其外川岸場問屋共罷出、差留候得共悪言雑言申し、更ニ聞入不申、無体ニ積通候ニ付、無拠右始末黒羽町役人共エ可懸合ト存候内、間もなく後より塩拾七俵積来候間送状受取、荷揚可致ト存候処、船頭共申聞候ハ、右塩之儀ハ才料附添来候得共、右才料ハ用向有之、途中ニテ相後レ候間、才料参リ次第、陸揚可致間、夫迄待呉れ候様申ニ付、任其意待居候内、夜ニ入リ川岸泊ニ相成、翌八日早朝右万蔵并ニ同人召仕清吉、其外塩才料三田与治左衛門殿、羽石清右衛門殿当川岸場エ罷越、如以前積通候旨申して差留候を、乱妨ニ打散し、悪言雑言申し、右拾七俵之塩不法ニ、川上之方エ積登行候ニ付、村方のもの後追欠参リ、矢倉川岸下ニおいて差押候処、万蔵召仕清吉義脇差引抜、村方百姓吉平エ切掛候得共、厚着いたし居候故切通リ不申、疵所も出来不申、乍去右体抜刃ヲ以乱妨相働キ候始末、乍
大関能登守様エ御掛合被成下置、以来右様之乱妨不相働、仕来リ相守リ、登荷物ハ当村川岸場エ陸揚ゲいたし、陸附を以て運送仕リ、寛文度御訴意之通、駄賃助合不減様被仰付下置度奉願上候、以上
          御知行所佐良土村
                両給役人惣代
                     伊十郎
    御地頭所様            弥右衛門
      御役所
  大沼権之進よりの返書
御手紙致拝見候、甚寒ニ御座候処、各様弥々御安康ニテ被御勤仕、珍重奉存候、然者其□□□御許様御知行所、野州那須郡佐良土村川岸場問屋源兵衛并村役人共より、御別紙写之通リ願出候ニ付、御呼出し御糺之処、相違も無之御聞ニ付、右願書写致一読候様御廻し被下、糺之上願書之通リニ候ハバ、万蔵エ先規之通リ相守リ、殊ニ御隣領儀時々往返船路ニ付、万事平穏ニ相治リ候様被成度、理解申諭候様、若先規之仕来リ不相用公訴等ニ相成候テハ、小給所御無人之村方、向後何事(事)簾立候様ニテハ、自然御不都合之義ニ付、公訴不相成様被成度旨被仰越候条々、御尤もニ致承知候、
 右ニ付、万蔵方得ト御糺理解申聞候処、同人より、事好候筋ニハ無之、一旦於在所内事取扱相成候得共、御知行所之もの納得不仕無拠公訴之儀願出候儀ニテ、此上扱人も御座候ハバ、双方勘弁之上、前々之振合平穏ニ相治リ可申哉ト奉存候
 尤も此度登リ船積荷之儀ハ、全ク能登守方台所急ギ要用之品ニテ、名目抔(など)ト申儀ニハ毛頭無之候間、右等之察違茂可之哉ニ相察申候、御差含御知行所者エも、如上御諭被下度存候、乍延引右御答方々如斯御座候、願書写之儀ニ付御返却不申上候、以上
    十二月朔日
                 大関能登守内
                      大沼権之進
猶以早速本文之趣可御答候処、取調中延引ニ相成申候、万蔵義も出府罷在候之間、早々及示談候様御取計可下候、以上
 以手紙啓上候、甚寒之節御座処候、弥御安全ニ被御勤仕珍重ニ奉存候、然者昨日も被御掛合御引合一件、御相給坂本金之丞様御方御引合上否可仰聞趣致承知候、時節柄ニも有之候得バ、何れニも御□様被仰越之上、差出し取斗可申筈候得共、迚も急々示談可相成哉ニも不存、左候得バ昨日相送リ候而巳余日無之候故、無拠候間其筋へ差出し取斗置可申候哉、尤も
御掛合候通リ、内事之義ハ相手方趣意柄ニより候而、万蔵へ幾重ニも理解申聞置候而、此程中貴答被仰聞御趣意柄相破リ候ト申ニハ無之候間、不悪御承知置可下候
 此段可御意此御座候
     十二月十六日
                      大沼権之進
   森範左衛門様
          久世馬吉様御知行所役人惣代
                   組頭  弥右衛門
         坂本金之丞様御知行所役人惣代
                   組頭百姓代兼
                       伊十郎

 文化八年、片府田村の権兵衛が、片府田に新河岸の開設を願い出た。これに対し、福原村・上蛭田村・下蛭田村の名主達が、用水引入れの堰の設置・仮橋・鮎簗の設置の妨げになるとの理由で反対した事がある。文中にも関街道御継場ニテ云々とある。
   乍恐以書付申上
 野州那須郡福原村役人惣代名主文平、同郡上下蛭田村役人惣代名主三郎兵衛、同伊左衛門一同奉申上候、同郡片府田村権兵衛儀、此度新河岸取立、諸荷物運送仕度段、先達而於村方懸合有之候得共、私共村々の義ハ、堰場并鮎簗御運上場エ差障難儀ニ付其段及挨拶候処、私共儀此度呼出しに相成、右差障難渋之始末御糺ニ御座候、此度私共、村々之儀ハ、箒川縁リニテ外ニ用水堀無之、右箒川ハ年々二月ヨリ七月迄堰張リ立、田方仕付時節ハ水上ケ、是迄御田地相続仕来、殊ニ右川筋ニ鮎簗場有之、先年ヨリ御運上差上稼来リ、并ニ福原村之儀ハ、関海道御継場ニテ、右箒川往来之儀ハ、夏ノ内ハ船渡ニテ、冬より春迄ハ土橋ヲ懸ケ、是迄聊モ無御差支御継立仕リ、上下蛭田村之儀ハ箒川ノ向字中野ト申処ニ秣場有之、右往来之儀も前書同様之儀ニテ是迄積取右始末ニ御座候ヘバ、権兵衛願上候通リ、箒川運送船通行仕候様相成候テハ、第一御継立等ニも差支、且ハ堰場并御運上場秣苅取等ニも差支え、御田地相続相成兼可申儀、村々小前一同困窮之基ひニ相成候儀、眼前之儀ニテ、何共難儀至極仕リ候、何率以御慈悲、右権兵衛御願奉申上候新河岸之儀ハ、何分ニも御免被成下置候様偏ニ御聞済奉願上候、以上
             那須豊太郎領分
               野州那須郡福原村
                 役人惣代
                   名主  文平
     文化八未年六月廿六日
                桑山重郎右衛門
                酒井吉十郎   知行所
                倉橋宗十郎
           同州同郡上蛭田村
                       役人惣代
           倉橋宗十郎知行所
               右村
                  名主  三郎兵衛
               加々爪右京
               本多甚左衛門
               中根平八郎   知行所
               加々美頼母
               浅井吉之丞
          同州同郡下蛭田村
                役人惣代
                  名主  伊左衛門
 御奉行所様

(蜂巣英夫家文書)

 明治に入っては、佐良土川岸からの積荷は何年頃までなされたものであろうか、明治十年の積荷の報告は次のようであった。
     船積荷物御届
   明治十年一月ヨリ同十二月迄、船積諸荷物積立候分一切無御座候、以上
                   第三大区八小区
     明治十一年四月十日      那須郡佐良土村
                      川岸    小林彦七
   戸長
     大野佐平太殿
(大野アイ家文書)