1 諸葛琴台(もろくずきんだい)

420 ~ 421
 寛延元年(一七四八)二月二日蛭田(頂蓮寺の裏辺)に生まる。父を平太夫という。通称次郎太夫、名は蠡(れい)字(あざな)は君測、〓髪山人(しんぱつさんじん)また涵月楼(かんげつろう)と号した。
 幼より学を好む。長じて(二十才頃か)江戸に出て諸家と交わり、上野輪王寺の宮の侍読となる。輪王寺親王は、常に上野寛永寺に住し、時々日光輪王寺に行ったので、琴台も日光に閑居すること約十八年(一説に十年)に及んだ。〓髪山人(男体山をくろかみ山という)及び涵月楼の号は、この地にちなんだものであろう。後、再び江戸に出で浅草に住んだ。
 姫路侯酒井雅楽頭忠道、琴台の盛名を聞き、招聘して、儒官として採用、琴台は江戸藩邸に勤務した。
 文化七年(一八一〇)十一月十七日、病んで下谷の住居で没した。六十三才、下谷豊住町養玉院に葬った。但しこの寺は、大正十二年の東京大震災後の区画整理により、品川区大井伊藤町に移転し、墓もそこに移ったが、その後、諸葛家の墓は、上野寛永寺の系派に属する寺で、寛永寺の近くの現竜院という寺に移った。
 琴台没する三日前に、孫の興卿(姫路侯に仕う)を枕頭によんで、詩を口授した。
   六十年来混裸虫 今吾蝉脱出其中
   紅蜀錦帙珊瑚杖 雲路騎竜瞰碧空
    六十年来裸虫に混ず、今吾蝉脱してその中を出づ
    紅蜀錦帙珊瑚の杖、雲路竜に騎りて碧空より瞰(みおろ)す
 著書に律量全編・〓髪山人集(二十巻十冊)梳書収燼竝附録(六巻寛政八年刊)・読論語(十巻七冊)・大学考(一冊)・唐詩格・卿葬略言・経学或問(二冊天明七年刊)・印則・易筮探頤(一冊)・平氏春秋・孝経考(一冊)・墨子箋(一冊)・古碑考・〓髪山賤(一冊寛政八年刊)・塩原山高尾碑記評・易統・学庸経伝考・管子箋・助語字弁・筍子銭・〓髪子・荘兵撻楚・推原録・政事考・制度考・蕉窓易話・宋学論・唐詩格補・諸葛易伝内外編・諸葛詩伝・諸葛書伝・律量合編・律量全編補等がある。
 琴台の子孫は代々姫路侯に仕えた。曽孫を卯之吉と言い、青霞と号した、やはり姫路侯に仕えた。
 琴台帰省して、たまたま蛭田に在るとき、土地の人蜂巣永隆という者が訪ね、福原の池沢圭山という先生が亡くなり、世話をうけた門人達で記念碑を建てたいので文章を書いて貰いたい、と依頼をうけたことが記録にある。この外記念碑の撰文を数多く依頼されて書いた。

諸葛琴台の筆跡と芳賀町にある琴台撰文の唐桶用水記念碑

 妻薫、諱(いみな)は蘭子、下野市貝町赤羽の人で書を良くしたという。
 琴台の研究家高浜二郎が、下野史学第十五号に発表した文中に、六年間館林藩に仕え、天明元年に仕えを退き、国に帰ったのであるが、当時の詩に帰郷と題して
「十五にして家を辞し、三十にして還る、相逢ふもの孰れか是れ旧時の顔ぞ。慚づらくは白髪三千丈を将って、日に対ふ雲間の〓髪山」

という詩がある。これによれば十五才の頃すでに上京したとも考えられる。
 烏山町史によると、日光輪王寺に儒者として在住したとき、文化元年(一八〇四)烏山藩より招かれて、隔月に烏山に来て藩士達に、天文、暦数、詩作、経書等の学を講じたという。この時の手当は、一か年三人扶持であったとのことである。