越後国村松の城下で剣術を教えている時に、忠次は青雲の門人となり、教えをうけた。忠次太刀筋良く、ずんずん上達してその極意を究めたという。
其後、清雲更に諸国を遍歴し、すでに郷里に帰っていた忠次を尋ねて佐良土に来た。佐良土は忠次の母の在所である。
清雲の剣術の師は、豊臣秀吉の師匠、心影流疋田(ひきた)文五郎秀高である。清雲一生娶(めと)らず、子無く忠次を養子とした。清雲剣技すぐれ、百度仕合して百度勝ったと言う。
その頃、福原城主、那須右京太夫資景は、三年来の「おこり」という病気にかかり悩んでいた。清雲頼まれて祈祷を施し、これを治療した。その功により湯津上村に五百石の地を賜わり(一説に湯津上村大塚の地百五十石)、佐良土に住み、剣術を教えた。門人の数大へん多かったと言う。後年那須氏衰微して真理谷氏は禄を失った。
寛永四年(一六二七)丁卯七月十八日卒す。墓の上に清雲明神を祭る。
清雲五代の孫久弥が清雲の墓碑を建てた。水戸軽鴉山人の撰文で、湯津上大武氏の墓地に存す。
真理谷清雲居士墓誌銘
真理谷清雲信満は、武田源氏真理谷入道道環の後胤なり
真理谷落城の後親族の由縁を以て、長南の城主武田兵部大輔信栄に寄寓す、天正十八年小田原落城、同年東照宮の台命を以て、本田中務大輔忠勝・平岩主水正親・鳥井彦右衛門尉元忠等の三将関内を征す、因て茲に長南・長北・伊南・伊北及び鶴城・亀城以下四十八ケ所落城す、事の故を以て清雲落魄し、諸州に遍歴す、以(ゆえ)有りて当郡に入り、剣術の師範となり、英名を隣国に奮う、之に加うるに、神変奇異の軍術小笠原与斉に髣鬚す、当郡の主那須侯、老瘧(おこり)の不治ありて三年療を経れども功なし
偶(たまたま)清雲の令名を聞き、郡主の萱堂清雲を請いて城内に入る。清雲剣を按じて霊剣を振い、則ち三年の瘧病頓に消え心身浄天白日、郡侯感賞に耐え、湯津上の地を以て恩賜す
清雲正僧行実の故を以て実子なし、荻目忠治に所領を禅譲す、往時長南を出で、住むに流落して他州に遊ぶと雖も宿望あり、武功に依って封地を獲得す、則ち、武田の累代の鎮守妙見を以て封地に祭り、家運の久しきを祈る、今茲に元和年丁巳、所存して妙見穣社を建立す
時去り時来り、天運革命し侯家衰え、家臣各禄を失う、真理谷久弥信祭先祖の旧迹を衛りて処士と為る、事の故は那須拾遺に詳なり、寛延元年戊辰、星霜一百三十有四年に〓(およ)び、事の故を知る人稀なり弥(いよいよ)久しく、則ち事由を失うを悲しむ、清雲五代の真理谷久弥信祭慨嘆し、碑銘を不肖に請うと雖も由来文せず、久しく請う、辞すること再三なり、然りと誰も其の需復切なり、故に止むを得ず梗概を採りて石に勒(ろく)す
銘に曰く
水に掬し雲に耕し西又東 剣光郡中に閃々たり
赫々たり幾千歳 □ □ 独歩す清雲志気勇なり
清雲五代遠孫真理谷久弥建てる焉
常陽県軽鴉山人撰
元禄三庚午年初冬吉旦
真理谷清雲信満は、武田源氏真理谷入道道環の後胤なり
真理谷落城の後親族の由縁を以て、長南の城主武田兵部大輔信栄に寄寓す、天正十八年小田原落城、同年東照宮の台命を以て、本田中務大輔忠勝・平岩主水正親・鳥井彦右衛門尉元忠等の三将関内を征す、因て茲に長南・長北・伊南・伊北及び鶴城・亀城以下四十八ケ所落城す、事の故を以て清雲落魄し、諸州に遍歴す、以(ゆえ)有りて当郡に入り、剣術の師範となり、英名を隣国に奮う、之に加うるに、神変奇異の軍術小笠原与斉に髣鬚す、当郡の主那須侯、老瘧(おこり)の不治ありて三年療を経れども功なし
偶(たまたま)清雲の令名を聞き、郡主の萱堂清雲を請いて城内に入る。清雲剣を按じて霊剣を振い、則ち三年の瘧病頓に消え心身浄天白日、郡侯感賞に耐え、湯津上の地を以て恩賜す
清雲正僧行実の故を以て実子なし、荻目忠治に所領を禅譲す、往時長南を出で、住むに流落して他州に遊ぶと雖も宿望あり、武功に依って封地を獲得す、則ち、武田の累代の鎮守妙見を以て封地に祭り、家運の久しきを祈る、今茲に元和年丁巳、所存して妙見穣社を建立す
時去り時来り、天運革命し侯家衰え、家臣各禄を失う、真理谷久弥信祭先祖の旧迹を衛りて処士と為る、事の故は那須拾遺に詳なり、寛延元年戊辰、星霜一百三十有四年に〓(およ)び、事の故を知る人稀なり弥(いよいよ)久しく、則ち事由を失うを悲しむ、清雲五代の真理谷久弥信祭慨嘆し、碑銘を不肖に請うと雖も由来文せず、久しく請う、辞すること再三なり、然りと誰も其の需復切なり、故に止むを得ず梗概を採りて石に勒(ろく)す
銘に曰く
水に掬し雲に耕し西又東 剣光郡中に閃々たり
赫々たり幾千歳 □ □ 独歩す清雲志気勇なり
清雲五代遠孫真理谷久弥建てる焉
常陽県軽鴉山人撰
元禄三庚午年初冬吉旦
忠次は、名を八郎右衛門信広と改め剣術を教えた。那須資晴の家臣堺村八騎の勇士の一人、荻野目玄蕃(二千石を領す)の子である。八騎は、資晴烏山開退後、烏山城主成田佐馬佐の命に背いて成敗をうけたが、玄蕃の妻が当時六才の忠次を抱いて逃れ、佐良土の兄興野清八郎隆寿方(資晴の家臣)に身を寄せた。清八郎は成田氏を恐れ、忠次を宇都宮に捨てたが、母親が再び忠次を探してつれ戻した。
十四才になり、元服して堺忠次信広と名乗らせた。十五才の時大阪に上り、武家野村某に奉公した。忠次この時身長五尺五寸(一六六センチメートル)三人力、体重十九貫(七一キログラム)あり、十八才になると剣術門弟中、忠次に勝つ者がなかった。のちに、越後村松に移り、ここで清雲の門に入り師弟の契を結んだ。
忠次には子孫多く繁栄したと言われる。三男大武源右衛門景弥(かげみつ)は、黒羽大関家に仕えて剣術の指南をした。老年になって退職を願い出で、湯津上大河内に住んだ。元禄十四年(一七〇一)四月六日八十九才で没した。法名宗剣居士と号した。
景弥の次男大武源左衛門尉豊昌は、馬術の天下随一となり、将軍家の馬術師範となり、母親を江戸へ引きとり孝行をつくした。老年に至って湯津上に住み、長命を保ち、悠々自適の生涯を終えたという。
『那須拾遺記』