4 那須資晴

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 父は烏山城主那須資胤、母は後妻で芦野氏の女、弘治元年(一五五五)に生れ、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉のために佐良土に退隠閉居を命ぜられた。年令三十五才である。慶長十四年(一六〇九)六月五十四才で病没した。(一説に慶長十五年、五十七才とあり)
 法名不携院殿休山慶罷大禅定門
妻女は結城晴朝の女である。
 那須記によれば、永禄十年(一五六七)すでに十二才で、父資胤に従って戦陣に参加している。天正十一年父資胤が死去した時資晴二十八才であったが、当時は戦乱の世で父資胤の以前より、戦争に明け暮れる毎日であった。天正十三年、千本常陸守為継・隆継を滝寺にて謀殺した。
 資晴は近隣に覇を唱え、八万石を領した勇将であったが、天正十八年(一五九〇)(この時、子の資景五才)三月、豊臣秀吉の小田原北条氏政父子の攻略に、資晴参加しなかったため、秀吉の怒りにふれ、烏山を没収され、佐良土に閉居を命ぜられた。資景は五千石を給され福原に封ぜられ、資晴も秀吉に詑びを入れ五千石を賜わったとある。
 文禄元年(一五九二)秀吉朝鮮に兵を進めたときは、資晴も僅かの軍勢を引き具して、筑紫(九州)の名護屋に馳せ参じた。
 慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦いには、資晴、徳川方に味方し、七年頃より江戸城に伺候し、所領の地も加増され、同九年(四十九才)大膳太夫従五位下、また改めて修理太夫に任ぜられた。
 その子資景も、大阪夏の陣には戦功をたてたと記録されている。
 那須家と常陸の佐竹家は、永年の不和にて幾度か戦争をくりかえした。天正十五年沢村観音寺住職宥弁の骨折りにより和解し、資晴の妹を佐竹義宣のもとに嫁がせた。
 那須資晴より片府田宝寿院宛の書状がある。
追啓、御作之地蔵給候、喜悦候、別而秘蔵可申候
 以上、
其院家後住之事、富久原之八幡別当被相定由、於資晴尤珍重候、然者院領屋敷等之事、如累年不可有相違候、旨趣太関紀伊守可令演説候、雖無申迄候、無油断有養性、御取直可目出度候、恐々謹言
    霜月廿九日
    宝寿院

(栃木県史金剛寿院文書)


那須資晴筆跡

 資晴が、天正十八年に佐良土に閉居させられて、慶長十四年に没する迄、十九年の年月があり、その間江戸城にも出仕したようである。当地に在って没したものか、福原の資景のもとに移ったものかは不明であるが、福原の玄性寺に葬られたといわれる。光丸山境内にも資晴の墓と称する古墓がある。