7 吉成信義

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 蛭畑の人、蛭畑開発の功労者。通称利兵衛、父は小左衛門と言った。天保九年十二月名主役になった。その頃助郷の賦役が繁多で、家業にさしつかえ、村を逃げ出す者が出てきて、田畑は荒れはてた。
 信義は領主花房氏に謀り、用水堀を開さく整備し、原野を開拓し、私費を投じ、新入者には農具を与えるなどして、村内の生業の安定に苦心を重ね、その子慶安、并びに吉成万衛門も共に協力、労苦を共にした結果大いにその成果があがった。
 他村に退出したもの七戸程あったが、新たに十五戸増し、田畑の合計四十二町歩にも及んだ。
 領主花房氏も大いに喜び、その功を賞し、感状を賜わった。信義は慶応四年八月十三日、五十六才を以て病気のため世を去った。明治廿五年五月蛭畑の村人達は、その徳を謝し記念のため碑を建てた。印南嵐の撰文により、吉成泰一郎の書である。
   吉成信義の碑
翁通称利兵衛、父小左衛門、母平山氏下野国那須郡蛭畑邑人也。
天保九年十二月十八日為名主役、時〓(エウ)役繁興邑民不負荷、流亡日継、田野月荒蕪。翁深憂之不措、於此謀領主花房氏以興水利原野使男慶安及組頭役吉成万衛門其事労心焦思十数年、於此或給田器、或散私貲廃戸七新戸十有五所、開拓水陸田四十二町余以回復一邑衰替、創建不朽業、一邑今被其恩恵、領主花房氏賜状厚賞其功云。慶応四年秋八月十有三日以病卒享年五十有六
今茲邑人追感翁徳義乃相議建碑記其顛末以示後昆
   明治廿五年五月  印南嵐 撰文
            吉成泰一郎書并額字