文久年間(一一〇余年前)鈴木助左衛門・吉成文平の両人用水路開さくの計画をたて、大久保清左衛門・阿久津藤右衛門・鈴木介之丞・大久保幸左衛門・鈴木忠兵衛・高野喜四郎・鈴木善三郎・鈴木久助等にはかり、賛同を得、更に村民一同の協力により工事を興すこととした。
時の代官山内源七郎に請願をして許可を得た。工事に対する知識もまだ幼稚な時代で、村民の苦心は大へんなものであったが、計画をたててより三ケ年の歳月を経て、蛇尾川からの用水引入れをどうやら完成した。時に元治元年(一八六四)三月であった。
その後、幾度か補修を加え、明治二年にようやく完全なものになった。水路の延長二千八百二十二間(五一〇七メートル)工費七五五両余費した。その余り水は新宿の用水にも利用され、蛭田にも注ぐことになった。さらに明治二十八年には、蛭畑・佐良土をも潤すことになる。
片府田湯泉神社境内に、大正六年十二月「潤沢四疆」の頌徳記念碑が建てられた。那須郡長従七位富田義次郎撰文、書記川上源橘書である。
明治廿六年二月、水道開さくの記念碑を建てるべく、発起人八名世話人一一名で、寄付募集を行なった。その時の趣意書によると、助左衛門人となり温良恭倹決断に明かなりとあり、井戸水に頼るのみの生活にて、従って上郷には畑地のみ、水の乏しきを憂い、この地に用水引き入れを思いついてから七年間、ひとり地形地の利を測量し、その可能なることを知り、吉成文平に話した処、文平も大いに感激賛同し、村の人々に図った。はじめは賛否両論あったが、ついに一同の協力を得たとある。
元治元年三月工事に着手し、工事費金壱千三百余円、この内官金を拝借し、村内有志よりも寄付をうけ、さらに不足分は私費を投じ、元治二年(一八六五)四月工事を完了したと記してある。
発起人八名は、高野市郎・吉成周平・鈴木治三郎・阿久津伝一郎・大久保万治・鈴木章四郎・大久保清二郎・阿久津岸平
世話人、鈴木弁次・同庄作・同熊太郎・同定吉・同宗三郎・同要吉・同勇吉・吉成岩五郎・高野宇三郎・高野惣八
賛成者、笹沼友三郎
(鈴木堅一家文書)