明治三十九年一月、大字佐良土字中島の大字共有地八反歩を借用、金田村第三小学校舎を買受け同四十一年落成式を挙行した。村からも教材費などの助成を得、村内外から生徒が集まり、卒業生は実に二千人を越すという。大正十二年館を閉じた。
辛酸の経営二十年に及んだのであるが、よくこれを支えたのは、夫人はつ女の内助の功によるものが大きかった。はつ女は佐良土小林氏の出である。館閉鎖後は塩原の剣(つるぎ)不動尊を信仰し、塩原に移り夫妻揃って天寿を全うした。
聚星館門下生医学博士川井一が文を作り、同じく門下生正七位勲七等渡辺道雄書、栃木県知事横川信夫篆(てん)額の記念碑が、門下生一同によって光丸山の境内に建てられたのは、昭和三十五年十一月三日である。
小川町に住んだ歌人野口青眉(規矩雄)は藤作の長子である。
碑文
「聚星頌徳」
吾等が恩師野口藤作先生は、明治二年栃木市外真弓に生まれ、同廿三年栃木県師範学校を卒業後、栃木・福島両県に小学校長たりし事十余年、同卅六年四月、この地方の小学校以上の教育施設がない事を憾みとし、佐良土光丸山の附属建物を借りて、私立聚星館を創立せられた。
其後、同地滝の御前に校舎を新築し、私財を投じて辛酸経営卅年、此地方の向学子弟を聚め、敝衣破帽一身の貧苦を顧みず、只管文武の道を講じ、諄々として倦む事なく、育英の為に粉骨砕身せられた、之により先生の教を受くる者、その数実に二千、幾多の人材を育成して、国家の進運と郷土の振興に寄与せられた、其後先生は、塩原に退隠、昭和廿九年三月三十一日、八十四才を以て天寿を終らせられた、茲に吾等は追慕敬仰の念愈々止み難く、相謀りてこのゆかりある霊場に碑を建て、不朽に残す事とした。
嗚呼先生の徳風偉なるかな
昭和三十五年十一月三日 私立聚星館同窓会
篆(てん)額 栃木県知事横川信夫 門下生 正七位勲七等 渡辺道雄書
撰文 門下生医学博士 川井一
「聚星頌徳」
吾等が恩師野口藤作先生は、明治二年栃木市外真弓に生まれ、同廿三年栃木県師範学校を卒業後、栃木・福島両県に小学校長たりし事十余年、同卅六年四月、この地方の小学校以上の教育施設がない事を憾みとし、佐良土光丸山の附属建物を借りて、私立聚星館を創立せられた。
其後、同地滝の御前に校舎を新築し、私財を投じて辛酸経営卅年、此地方の向学子弟を聚め、敝衣破帽一身の貧苦を顧みず、只管文武の道を講じ、諄々として倦む事なく、育英の為に粉骨砕身せられた、之により先生の教を受くる者、その数実に二千、幾多の人材を育成して、国家の進運と郷土の振興に寄与せられた、其後先生は、塩原に退隠、昭和廿九年三月三十一日、八十四才を以て天寿を終らせられた、茲に吾等は追慕敬仰の念愈々止み難く、相謀りてこのゆかりある霊場に碑を建て、不朽に残す事とした。
嗚呼先生の徳風偉なるかな
昭和三十五年十一月三日 私立聚星館同窓会
篆(てん)額 栃木県知事横川信夫 門下生 正七位勲七等 渡辺道雄書
撰文 門下生医学博士 川井一