10 植竹丈野(一八六七~一九三四)

430 ~ 430
 大字湯津上植竹多重の二男に生れ、幼にして学に志し、独学十七才にして、高久小学校の教師となる。明治二十二年本村に来任し、四年の後、大内・大那地・上都賀郡板荷の各小学校を歴任し、明治三十年再び湯津上小学校に転じた。教職にあること三十九年十一ケ月、昭和二年八月病を得て退職した。教え子達が笠石神社の境内に頌徳碑を建てた。
頌徳碑
先生姓は植竹名は丈野、明治三年十月十日を以て、湯津上村に生る、父は多重、母はノイ、先生は其の二男たり、先生幼にして頴悟夙に育英の事業に志し、独学奮闘十七才にして素志を達し、初め高久小学校に奉職せられしが、明治二十二年本村に来任し、在職四年の後大内大那地及び上都賀郡板荷の各小学校に歴任し、明治三十年再び本村に転ぜられて今日に及べり
先生事に当るや、至誠恪勤、常に校運の隆昌を図り、子弟を教ふるや熱心親切、身を以て之を導き、学校を己の家とし、児童を我が子とし、栄達を願はず、名誉を欲せず、畢生を子弟の教育に委ね、傍ら考古学を研鑽して老の至るを知らず、其の間青年会及び処女会を善導し、郷党の教育に一身を捧ぐる事、前後三十九年十一ケ月の長きに及び、其の慈育に浴せる者、実に一千八百余名の多きに達せり、先生の純情と徳望とは、尚今后の教育に期待せらる事大なりしに、惜しむべし本年八月、病の為め遂に退職のやむなきに至れり
先生病みて、家に一子なきも意に介する所なく、ひたすら子弟の向上に焦慮せらる、其の勤勉篤行真に世に師表たるの人と謂ふべし
茲に先生の徳を慕ふもの相謀りて、碑を建て之を後昆に伝へんと欲し、文を余に乞ふ、乃ち其の梗概を叙する所なり
     昭和二年十二月
   栃木県立大田原中学校長正六位  土田長助撰并題
   栃木県立大田原中学校教諭従六位 渡辺留吉書