明治時代の官僚であり政治家、明治十六年官地の大字蛭田の原野を払い下げ、平田東助と共に農場を経営し、信用組合を創設し、今日の品川及び農協の前身傘松産業組合の基礎を作った。
明治二十年五月二十二日、次の歌を詠んだ。
那須野原狐は化けて苗代の
案山子(かかし)となりし御代(みよ)ぞ芽出度
長州萩藩の士族の家に生れ、松下村塾に学び、十六才で松陰の罪名を藩府に問うたため、謹慎を命じられた。文久二年(一八六二)高杉晋作らと外国公使襲げきを計って御楯組に加わり、以後尊皇攘夷運動を推進した。王政復古後は、岩倉具視・大久保利通らのもとで枢機に参加した。
明治二年(一八六九)渡欧して、普仏戦争を視察し、ひきつづき公使館員として、同九年(一八七六)まで滞在した。この間地方制度・農政・共同組合の研究に努めた。帰国後内務省に入り、一八八一年農商務省新設後これに転じ、大日本農会などの産業団体の設立と奨励に尽力した。
その後ドイツ公使に転じた。八四年子爵を授けらる。宮中顧問官、御料局長官を歴任、九一年五月松方内閣の内務大臣となった。
後に、西郷従道らと政府擁護の政治結社国民協会を設立した。尚信用組合の普及に力を注いだ。
後年品川の人々、品川神社に祀った。御神体として、品川弥二郎少年時代、松下村塾に通学した当時着用の、夏の紋付のかたびらを納めてある。
平田東助(一八四八~一九二五)
明治・大正の官僚政治家で品川弥二郎と共に品川傘松農場を経営し、のちひとりで全部の経営者となった。共に品川信用組合の創設に意を用いた。米沢藩士の出身、七一年ドイツに学び、七六年帰国、大蔵権少書記官兼太政官権少書記官・太政官大書記官・法制局参事官・同部長・枢密院書記官長・法制局長官を歴任、法制の整備にあたった。
貴族員議員・枢密顧問官となり、清浦奎吾らと共に、山県有朋の支柱として活躍した。農商務大臣・内務大臣等も歴任した。
大正六年(一九一七)臨時外交調査会委員・臨時教育会議総裁となり、一九二二年伯爵となる。
品川神社境内に遺髪と爪を納めて墓碑を建立した。
平田東助墓
平田栄二(一八八二~一九七一)
平田東助の嗣子、傘松農場主、日本画家。
戦後農地改革に際し、品川傘松農場に住し、昭和三十三年東京に帰った。東京美術学校を卒え、河合玉堂に師事し、東京美術学校の教授になった。村内にも花鳥画の作品がある。又短歌をよくし、歌集「百姓の短歌」その他がある。
旧平田傘松農場解放農地
田四二町一反二畝〇九歩
旧金田村地内
畑二一町七反五畝二六歩
田六九町〇反一畝〇五歩
湯津上村地内
畑四〇町一反五畝一〇歩
田一一一町一反三畝一四歩
両計
畑 六一町九反一畝〇六歩
田畑計 一七三町〇反四畝二〇歩
宅地 二〇、一一七坪