1 佐良土城と佐良土宮内の館跡

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 佐良土城は、那須資晴隠退の居城である。豊臣秀吉が天正十八年小田原城を攻めた際、資晴はその軍に参加しなかった。そのため秀吉の怒りを買い烏山城を追放され、佐良土に閉居を命ぜられた。東西五四米、南北七二米ある。
 又一説、木曽武元著す処の那須拾遺記には、佐良土宮内少輔の館なりと記されているが、この宮内少輔の館跡は、城跡の約百米南西の田の中である。(佐藤喜一郎所有地)以前は畑で、土手囲いがあり、館跡らしく築山が二ケ所あり、昔の面影を偲ばせるものがあった。広さは二〇アール程あり、昔は隣地を含めて四〇アール位あったろうという。
 佐良土宮内少輔は資晴の父資胤に仕えた武将であるから、当然資晴にとっても家来である。
 薄葉原の合戦や、資胤が佐良土河原から、梅平の大金備後守重宣を広瀬に攻めた時、活躍したことが那須記に載っている。
 資晴が佐良土に閉居後、大阪に伺候した時、足軽佐良土久助を伴って出向いたと那須記に記されている。久助と言うのは宮内のゆかりの者とも考えられる。近くには馬場の地名も今に伝えている。

佐良土城跡