那須拾遺記には、大金豊後守の館也とある。
那須記には、「佐竹方大金備後守(重宣)が弟大金豊前守は数度の戦に手柄をたて、名近国にかくれなけれども、佐竹何とか思召しけん、懸命の地を宛行(あておこなわ)す、よって豊前守佐竹を背いて那須に来り、金丸下総守をたのみて申上ければ、資胤聞召して、豊前守は武剛のよし聞き及び相抱くべき由にて、亀山の内、石塚と湯津上をたまわりて、鷹の巣に城をこしらへて居住あり」とあり、永禄九年(一五六六)八月二十四日、治武内山の戦に討死した。那須記の別の箇所には豊後守ともあり、いずれにしても、小口梅平の大金氏の弟ということである。