この湯津上村にいつごろから神社が鎮座していたかを知ることは、非常にむずかしいことであるといえる。なぜなら、現存している神社が湯津上村における最古の神社であるという確証はない。それ以前においても何らかの形で神社信仰があったにちがいないという推測は十分なされる。無論、それらの資料を得ることは困難であり、知ることも不可能であるというのが現状なのではないだろうか。
ここで、その範囲を那須郡に広げてみると、次のような文献を得ることができる。まず日本後紀に「承和二年二月戊戌下野国武茂神奉レ授二従五位下 此神坐下採二沙金一之山上」とあり、また同書承和五年九月の条に「下野国那須郡三和神預二之官社一」とある。さらに三代実録には「貞観五年十月七日授二下野国従五位上勲五等温泉神従四位下一 同十一年二月廿八日授二従四位下勲五等温泉神従四位上一」とある。承和・貞観という年号が九世紀のことであることから、すでにこのころ、馬頭町の武茂神社、小川町の三和神社、那須町湯本の温泉神社の鎮座していたことがわかる。これらのことから、わが湯津上村にも、少なくとも九世紀ごろには、神社信仰の思想が生まれていたのではないかと想像できる。
次に、なぜこの地に神社信仰思想が生まれてきたのかを考えてみると「栃木県神社誌」における黒尾東一氏の記述があるので、それを中心に引用させていただく。
その一として、自然の力に集まる人間の信仰をあげている。那須岳の噴煙は永久に立ちのぼり絶えることを知らず、無量の温泉が永劫に湧出する様を見て、わが祖先はそこに霊感をおぼえ、神格として信仰の中心とした。即ち、自然の偉力に不思議を感じ、神として仰がざるを得なかった古人の真心が神社信仰を生ませしめたという。その代表的な例として、那須郡に温泉神社、湯泉神社の多数なることをあげている。
ただ、温泉神社の分布については、那須郡誌によれば、余一宗隆が屋島の戦いにおいて、扇の的を射る際、「那須のゆぜん大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給へ」と祈願して的を射落したことから、余一宗隆の那須温泉神への信仰が厚かったからだという。そればかりか、太郎光隆以下十人の兄弟が各地に分知されると、おのおのその領内に温泉神社を勧請したからだとも述べている。
その二として、人物崇拝による神社をあげている。人間には偉力を発揮する人物を崇拝して、自分にもそれを求めようとしたり、その遺徳にすがろうとしたり、同時にその力をかりて努力精進を続けていく心のよりどころにしようとする心がある。そこに人間の弱さ、信仰の強さがあるわけであるが、そのため、武勇の神を生み、教育の神を生み、商工業の神を生み、お産の神から火防の神までも生んで、人間生活の守護神として信仰してきたものが神社信仰であるとしている。その一例として、八幡宮の多いことをあげている。ただ、那須郡誌においては、それに加え、この地方が前九年、後三年の役に際し、源氏が奥州征伐のために往復した通路にあたっていたためであるともしている。
その三としては、愛郷精神の発露によって建立された神社と家の氏神としての信仰によるものがあるとしている。
前者においては、この地に移住してきた人々が故郷を思い、その気持が故郷の神をこの地に移し、心の寂しさを慰めたものであるという。この那須野には、遠隔の地から多くの人々が移住してきており、これらの人々も現代の人々同様、故郷を思う気持はかわりなかったはずである。ましてや、交通機関・通信機関の発達していなかった古代においては、なおさらのことであったに違いない。例えば、愛宕神社は京都方面から那須野に移住した人々の建立によるものといわれている。
また、氏神による信仰の例としては諏訪神社がある。諏訪神社がこの地に鎮座している歴史性を那須郡誌は次のように述べている。
源平の戦いに際し、太郎光隆より九郎朝隆までは平家に属し、源氏の追討をうけ高館城から信濃国諏訪にのがれた。また十郎為隆は余一宗隆とともに源氏についたが、源義経の命に従わず怒りにふれ、やはり信州諏訪に隠れていた。兄弟はともに帰国の策を講じ、諏訪大明神に祈願を続けていたが、そのかいがあり、兄弟十人相携えて帰国できたという。そのため、各地に分知された兄弟はその御加護を敬い、氏神として諏訪大明神を勧請し祭ったという。
以上の三つから神社の起源を探ってみたわけであるが、湯津上村における神社のすべてが、これらの理由のいずれかにあてはまるとはいいがたい。その理由は複雑多岐にわたり、到底ここには記し尽せないものがあるからである。