正覚山実相院法輪寺

453 ~ 456
所在地  大字佐良土一四〇一
宗派   天台宗
本尊仏  釈迦如来 大日如来
境内地面積 一五、〇〇〇坪
建造物  本堂 庫裡 山門(村指定文化財) 鐘楼 土蔵
所属仏堂 大日堂 阿弥陀堂 薬師堂 天狗堂 絵馬堂 境外大日堂(奥の院)
寺宝   紺紙金泥中尊寺経 藤原時代(栃木県指定文化財)
     胎金曼荼羅絹地  平安初期
     十六羅漢     室町時代
     十二天      室町時代
     福禄寿      桃山時代(後陽成天皇御宸筆)
     涅槃(ねはん)図 江戸末期(栃木県指定文化財)小泉斐作
     絵馬「四霊の図」 明治初期(牧陵作)
記念物  西行桜(村指定天然記念物)
庭前にある枝垂(しだれ)桜で、樹齢約八〇〇年。その昔、西行法師が巡歴の際、「盛りにはなどか若葉は今とても 心ひかるる糸桜かな」と詠じたという伝説により「西行桜」と呼ばれている。

沿革
 法輪寺略記によれば、貞観二年(八六〇年)比叡山延暦寺第三世座主円仁慈覚大師関東奥羽地方巡錫の際、霊夢により釈迦 大日二仏の尊像を感得し、天台宗の一寺を創するに始まるとあり、久寿年中(一一五四~一一五五)には、文覚上人が巡錫し来たり、携える所の振鈴五個を当寺に奉納したという言伝えがあるが現存しない。下野国誌(河野守弘著)には「法輪寺は文覚上人の開基にて、上人紀伊国那智の滝に籠りて苦行せし時の鈴なりとて、今当時の什宝とせり」と記載され、蓮実長は那須郡誌に、「那須系譜(佐久山郷土誌所載)には、那須資之(福原五郎之隆文治五年宗隆の後を嗣ぎて資之と改む)福原城鬼門鎮護の為め之を開創す。信ずべきようである。資之は建久二年二月歿すと那須氏系図にあるから、当山の建立は、文治建久の頃であろう。」と述べられるなど、開基については諸説があり、いずれが真であるかは明らかでない。
 寛元三年(一二四五年)後嵯峨天皇勅願所の御宣下があり、山・院・寺号の三額を賜わったとされているが現存しない。現在の法輪寺山門の正覚山の立額は、本堂中の立額の実相院の文字と共に、霊雲法親王の御染筆であり、勅額門と称している。下って寛永十三年(一六三六)、上野寛永寺天海僧正の法嗣である芳賀郡二宮町宗光寺の住持であった弁海和尚が来山し、寺の衰微を歎き復興に努力して九代目住職となり、中興の業績をなした。弁海和尚は、元和三年(一六一七)京都宮中において三日間の法華八講大法会(ほっけはっこうだいほうえ)修行の法列に任ぜられ、後陽成天皇の御宸筆「福禄寿」の三字を賜わり、権大僧正に進められて帰山、その後大いに寺運栄えたという。那須修理太夫資晴、子息左京太夫資景の帰依厚く、寺領七十石を寄進されたことも法輪寺が栄えた要因であった。
 「郷土の研究」(大正十三年九月、湯津上尋常小学西校)には、延享二年(一七四五)の法輪寺および法輪寺々中六ケ寺の中の文珠院の報告書が記録されている。
       法輪寺
御除地
一境内 東西九十間南北百間
一林 東西十八間南北六十間
一権現山 東西百四十間南北百五十間
一富士山 東西八十間南北三十間
一弥陀堂壱宇 薬師堂壱宇 山王宮壱社 稲荷宮壱社
一田二町六段壱畝二十七歩 御年貢地
   分米弐十六石八斗九升七合
一畑五町弐反五歩 同断
   分米三十三石二斗壱升二合
一旦那 百五十軒
一門前百姓 八軒
   寺中六ケ寺
文珠院 薬王院 零破 松泉院 同教善院 同東光院 同龍光寺 未寺有寺
芦野揚源寺 水戸領金沢村自在院 水戸領浅川村安楽院 水戸領大 子村浄光寺
   門徒有寺
福原千手院 東泉覚城院 芦野弥勤院
   禾八寺
水戸領武茂村 花蔵院  同谷川村 威徳院
同  大沢村 花蔵院  同大子村 文殊寺
同  高岡村 東泉寺  同池田村 福性院
同  金沢村 福聚院  同萩田村 成就院
      法輪寺々中 文殊院
御除地
一境内 東西二十間南北十三間
一愛宕山 東西九十間南北二十間
一田 壱段八畝七歩 御年貢地
   分米壱石六斗壱升六合
一畑 三段七畝十弐歩 同断
   分米弐石四升九合
   外寺中ニモ少々宛除地有之追テ相写可申候
    延享二年 月 日
               法輪寺印
          未寺惣代 揚源寺印
          寺中惣代 文殊院印
          旦那惣代 与惣左衛門印
                 地頭用ニ付無印
            組頭 源之丞印

 昭和十八年四月八日には、法輪寺十三代住職〓栄法印の発願によって元禄十年に鋳造された梵鐘を太平洋戦争のために供出、現在の梵鐘は昭和三十四年四月八日、壇信徒の布施によって奉安されたものである。
 また、法輪寺の東西南北には、四方固めと称して、それぞれ諸天王と御神木が配し祀られていた。
  東方 持国天 欅(けやき)  南方 陀吉尼(だきに)天 杉(すぎ)
  西方 広目天 樫(かし)  北方 多聞天 槐(さいかち)
 この四方固めは、仏法僧の三宝を守護するために配置されたものであるが、四天王中南方を守護する増長天にかわって、わが国では稲荷と混同し、これと同神とされている陀吉尼天が配されているのは実に興味深い。東方と南方の二祠が現存している。
 法輪寺に付属して光丸山がある。
 光丸山は、慈覚大師が法輪寺の開創と共に、現在の奥の院に大日如来を勧請して御堂を建立、光丸山と名付けたのが初まりと伝えられている。現在の形態は、初院・中の院・奥の院(境外大日堂)の三院と、光丸山の本堂とされている大日堂から成っている。初院および中の院は法輪寺本堂に付随し、特に中の院には住職以外拝観を許さないという金剛界大日如来の秘仏を納めた御輿(みこし)が奉安されており、毎年十二月十三日(旧暦十一月十三日に行なわれていたものを改めた)の大縁日には、神仏混淆(こんこう)を現在に伝える全国でも珍しい寺院での御輿の渡御(とぎょ)が行なわれる。奥の院は、法輪寺境外の西北に約一粁ほど離れた、通称お山(やま)と呼ばれる小高い山の中にあって、大日如来五輪の宝塔(三摩耶形(さまやぎょう))を安置する。大日堂は、法輪寺境内入口正面にあって、胎蔵(たいぞう)界大日如来の秘仏を本尊とする光丸山の本堂である。現在の大日堂の建築物は、明治十四年四月二十一日官許を得て、烏山町滝の太平寺の本堂を譲り受け、解体して運搬され、この地で組み立てられたものである。それ以前は、同地に御仮屋と呼ばれる御堂が建っていた。
 これら初・中・奥の三院と、大日堂の総称が光丸山であり、光丸とは太陽すなわち大日如来の意であるという。
 また、光丸山には三つの鳥居と巨大な天狗の面があることでも知られている。一の鳥居は大日堂の西を流れる鳥取(とっとり)川をまたぎ、はるか奥の院に向って立ち、近年までは信徒がここで寒中沐浴潔斎し、六根清浄の上奥の院に参詣していた。二の鳥居は一の鳥居より北へ三百米ほど先の、国道二九四号線沿いの温泉神社裏にあり、その左手前には頭部が欠損した高足駄の行者像が置かれている。三の鳥居は奥の院入口にあって、その付近にオショウツカバアサン(ダツイバア)の石仏がある。この鳥居と奥の院の御堂を結ぶ山道のほぼ中間地点には、寛政四年(一七九二)造立の不動明王立像(金剛童子)が、通行人を検問するかのようににらみ立っている。北関東一大きいとも言われている天狗の面は、大日堂の手前、絵馬堂と並ぶ天狗堂に安置されている。この天狗面は明治十三年、武茂村(現在馬頭町)の富山講中が奉納したもので、高さ二・一四米、幅一・五米、鼻の高さが一・三米、重さ一噸もあり、火防・盗難・厄除天狗の面として広く信仰されている。また昭和五十二年に、佐良土の谷国夫が交通安全の発願を起こし、縦二米、幅一米、歯の高さ一米の天狗の大足駄を奉納した。
法輪寺歴代住職名
開山円仁慈覚大師 後一世源海 行弁 弁全 弁運 亮弁 豪弁 亮仁 弁栄 弁海(中興の祖) 仁海 性海 忠〓 〓栄 行海 〓真〓□ 円海 慧舛 逞純(不明)覚〓 了観 考天(不明)亮田 〓信 覚禅 貞海 貞順 貞乗 順譲 順厚 現住職第三十三世若水厚譲


光丸山一の鳥居


光丸山大日堂


お山途上に立つ不動尊


法輪寺本堂


山門


光丸山奥の院