明王山龍泉院頂蓮寺

458 ~ 459
所在地  大字蛭田四四四
宗派   新義真言宗智山派
本尊仏  大日如来(他に不動明王二体安置)
境内地面積 五五八坪
     本堂(庫裡も含む)五六坪四合
所属仏堂 蛭畑観音堂
     蛭畑地蔵堂
     穂積高畑観音堂
寺宝記念物等
     板碑(貞和元年(一三四五)のものと同二年のもの)
沿革
 明応七年(一四九八)二月十五日宥弘和尚の創建で、矢板市沢観音寺の未寺にあたり、未寺一二三ケ寺中の上席で、間口十八間の伽藍があった。他に位碑堂・鐘楼・経蔵・不動堂・山門があり、境内は広く老樹うっそうとしており、山門わきの小さな滝には修行僧の姿もみられたという。
 弘化二年(一八四五)正月十五日火災に逢い、堂宇・宝物・記録等悉く焼失、翌弘化三年、現存の建物(同村新宿にあったという)を仮本堂として移転した。昭和九年に大改築を行ない今日に至る。(寺伝)
頂蓮寺歴代住職名
大源 光善 元照 宥弘 慈心 了念 賢信 浄慶 宥斎 快真 静円 西心 真淳 宥智 弘栄 克禅 寛祐 宥尚 春海 祐雲 興栄 与栄 宥信 惇宥 宥〓 弘応 松栄 常念 照典 賢成 宥証 顕祐 亮栄 俊幸 信敬 隆雅 憲快 現住職第三十八世 佐藤恭

(宥弘和尚から数えると現住職は三十五世であるがその以前に三代の住職の名がある)

 同寺に大正十年、上蛭田に駐在所設置の際、小さな古墳から発掘されたという「貞和元年(一三四五)八月日」の銘のある板碑と、蛭田の古墳から出土したという高さ約五十糎、幅一九糎の板碑がある。
 板碑とは板石で作った一種の卒塔婆で、板石塔婆ともいう。形は板の上部を三角形にし、直下に二条の横線を刻み、その下に種子(しゅじ)・仏像・名号等を記し、更に本尊下に蓮台などを刻んだものもある。板碑という名は江戸時代ころから流布されたようで、板碑の流れは五輪塔から角塔婆・長足塔婆と転化したと考えられているが、板碑の二条の横線とともに、性格や源流について多くの問題を残し意見の一致を今日見ていない。板碑の種類や型式は、種子・諸宗・図像・尊号・書体等に数多くわけることができるが湯津上出土の板碑はいずれも武蔵板碑と呼ばれるものである。(柏のむかし参考)
(板碑(いたび)(広辞林)鎌倉・室町時代に、死者の追善供養などのために建てた平たい石の卒塔婆。上部に仏の種子(しゅじ)または仏像などを彫り、その下に建設趣意、氏名などを刻む、関東に多い。)


明王山竜泉院頂蓮寺(蛭田)


宝篋印塔(ほうきょういんとう)


板碑(頂蓮寺)

 明治初年の社寺墓地反別取調帳によると、頂蓮寺について次のように報告されている。
 一、境内六反四畝廿六歩
   内
   現今寺用地四百六拾弐坪
    此反別壱反五畝拾弐歩
   下々畑三百七拾四坪  御年貢地
    此反別壱反弐畝拾四歩
    此高六斗弐升三合三勺
    墓地八百八拾坪
    此反別弐反九畝拾歩
   境外地弐百廿九坪
    此反別七畝拾九歩
(鈴木堅一家資料)