宗派 新義真言宗智山派
本尊仏 不動明王
境内地面積
建造物 本堂 庫裡 山門
所属仏堂 如来堂
寺宝記念物等
板碑(いたび)(「厂广」とあるから暦応と推定される)
沿革
嘉吉三年(一四四三)十一月二十七日、根来の僧祐満上人当地に留錫(りゅうしゃく)し、不動明王を勧請して本尊となし、間口十五間奥行七間の伽藍を創建したとある。(現本堂建築趣意書)
しかし、蓮実長著那須郡誌では寺院名簿よりとして、天福元年(一二三三)祐満上人の開基で、嘉吉元年(一四四一)宥仙和尚(第二世)の中興であるとしている。
十九年後の寛正三年(一四六二)七月二十七日夜火災により焼失し時の住僧社備和尚本堂を再建する。那須家の帰依篤く、那須修理太夫資胤の代に、寺領五十石の寄進を得、寺院大いに隆盛となり、慶長年間第六世亮雅法印改築を志し、間口十一間(一九・九一米)奥行五間三尺(九・九五米)の堂宇を修造し、延宝年間の記には天文二十二年(一五五三)弟子宥玄宇田川に成就院を創し、元和三年(一六一七)十月には、宥誉新宿に成泉院を建てた、他六ケ所に未寺の創建ありと録せられる。
その後、明治四十一年八月二十二日堂宇焼失、同四十二年再建したが同年五月十六日台風により倒壊、同年十月間口六間(一〇・八六米)奥行四間三尺(八・四五米)の仮堂を設けて本尊を奉安する。
昭和十四年四月二十一日現本堂を新築し今日に至る。
歴代住職名
開基祐満上人 祐仙 祐俊(賢範ともあり) 亮珊 亮賢 亮雅 亮盛 弘瑜 俊覚 尊長 俊性(宝永五年入滅) 性俊(正徳二年入滅) 俊盛 俊栄 宥成 尊信 舜敝 賢宥 舜識 勝栄 実道 宥意 宥深 紋教 教全 本浄 秀雄 現住職第二十八世桑島弘道
明治二十八年蛭畑用水墜道を開さくした際出土した、長さ一尺六寸(四八・四糎)幅七寸一分(二一・五糎)の武蔵板碑がある。頭部は三角形で二条の細綿がその下に見え、左下が欠損しているが、線彫の蓮台の上に弥陀種子を記し、その下左右に「厂广五年」「四月」と刻まれてある。
那須資晴書状
追啓、御作之地蔵給候、喜悦候、別而秘蔵可申候、以上
其院家後住之事、富久原之八幡別当被相定由、於資晴尤珎重候、然者院領屋敷等之事、如累年不可有相違候、旨趣太関紀伊守可令演説候、雖無申迄候、無油断有養性、御取直可目出度候、恐々謹言、
霜月廿九日 (那須)資晴(花押)
宝寿院
追啓、御作之地蔵給候、喜悦候、別而秘蔵可申候、以上
其院家後住之事、富久原之八幡別当被相定由、於資晴尤珎重候、然者院領屋敷等之事、如累年不可有相違候、旨趣太関紀伊守可令演説候、雖無申迄候、無油断有養性、御取直可目出度候、恐々謹言、
霜月廿九日 (那須)資晴(花押)
宝寿院
(栃木県史金剛寿院文書)
明治十二年に報告した寺院明細帳には次のように記されている。
那須郡片府田村字如来堂
真言宗新儀派小本寺
明覚寺
下野国那須郡福原村
中本寺伝法寺 末
一 本尊不動明王
一 由緒 不詳 嘉吉三年創立
一 堂宇間数 間口拾間壱尺 奥行五間
一 境内坪数 六百九拾壱坪 地種民有第二種
一 境外所有地
字如来堂
一 畑 壱反九畝七歩(三筆)
此地価金拾壱円三拾弐銭七厘
字蛇田外
一 田 六反七畝弐拾六歩(五筆)
此地価金百拾弐円三拾六銭三厘
字如来堂外
一 平林 弐反壱畝弐拾六歩
此地価金九拾銭弐厘
一 宅地反別 弐反九畝六歩
此地価金四拾五円七拾八銭六厘
一 寺地 弐反三畝拾壱歩
此地価金三拾六円六拾三銭九厘
一 檀徒人員 五百拾九人
一 管轄庁迄 里程拾六里廿町
以上
右之通候也
那須郡片府田村宝寿院住職
明治十五年四月一日 佐藤教全
檀徒総代 阿久津藤四郎
戸長 大久保万次
(鈴木政雄家資料)
月桂山宝寿院明覚寺(片府田)
如来堂(宝寿院)
板碑(宝寿院)