諸廃寺

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 文珠院 大字佐良土の役場庁舎敷地内にあった寺で、同地法輪寺の末寺であった。那須拾遺記には、那須三十三観音の二十五番目として記載されている。郷土研究誌(湯津上村連合職員会編集)には文珠院の外に竜光寺、松泉院、教善院、東老院の寺院名が掲載され、文珠院同様佐良土地内にあって法輪寺の未寺であったと記されている。文珠院及び竜光寺は郡司家(真)古地図にも見ることができ、竜光寺は佐良土小学校付近に地名としても残っているが、他の三ケ寺は確認されていない。
 正法寺 大字湯津上石田にあった真言立宗の寺。安永六年(一七七七)三月の宗門改帳には江戸霊雲寺の末寺で一軒一人の檀林があったことが記録されている。さらに寛政五年(一七九三)の宗門改帳には、奥州白川(河)西連寺兼帯と記され、五年後の寛政十年のものには無住と付け加えてある。最後の記録は安政五年(一八五八)の宗門改帳であり、江戸末期まで正法寺が存在していたものと思われる。
 福性院 狭原の奥沢ユキエ家に今も屋号として残っている。同家記録によれば開山は権大僧都源光法印で、承応元年(一六五二)四月十二日入寂しているので、江戸時代初期に開創されたのであろう。最後の住僧は九世源正法印で寂年月日は明治八年十二月二十二日である。その後、奥沢良栄が金比羅様を勧請して社を建立し、神社として昭和四十年頃まで存在した。
 開基源光 源久 源恵 源永 源智 源〓 源敝 源□ 源正
 東福寺 滝田山東福寺と称し、真言宗の寺であった。現在の狭原公民館の敷地内にあった。付近には歴代住僧の墓碑が残存する。最も古いもので元禄元年(一六八八)の銘がある。おそらく江戸初期、あるいはそれ以前に寺が開創されたのであろう。明治の初期頃廃寺となり、檀家は大田原市の小滝山妙徳寺へ統合された。
 新善寺 如来山蓮華院新善寺と号し、真言宗で大字新宿にあった。無住の寺であったため、弘化元年(一八四四)本堂を沢村の観音寺に寄進した。その際如来堂を片府田に移したという。寺が建っていた付近には僧侶の墓碑が残存する。
 延命院 那須遠江守寺社御改文書に福原の金剛寿院の一末寺として、記されている。片府田にあった。(大田原市史)
 その他、廃寺については記録もなく、経走寺(狭原)・明星院(狭原)・常福院(湯津上入山)・常泉院(新宿)などの諸寺については、宗派や本寺関係、建物、歴史、塔碑類などは不明である。小船渡の観音堂はもと寺であったことは僧侶の墓碑で判るが、山院寺号は明らかでない。