屋敷面積は約七百五十坪(二四七五平方米)と他に比して広く、母屋の規模もこの地域にあっては、やや大きめである。間取りの点では、この地域典型の広間型をしている。
郡司汎一宅
屋敷構え 屋敷のほぼ中央に母屋を配し、母屋から真すぐ南の屋敷入口の所には瓦葺きの四脚(よつあし)門がある。現在では屋敷の西側に道路ができたため、西方を普段の入口としているが、冠婚葬祭の際は、今でも四脚門から出入りするという。
屋敷構え
間取り
四脚門
母屋の囲りには、門の外に、アマヤ(旧タバコ乾燥小屋)・肥料舎・灰(あく)小屋・木小屋・味噌小屋・蔵などの付属建物がある。アマヤと肥料舎は現在瓦葺きであるが、以前は茅葺き屋根であった。灰小屋は、いわゆる肥料用の草木灰を貯蔵するためのもので、火災の危険があるため、多く石造りとするが、ここではギョウカイ岩の一種である亀山石と佐良土石(釜石ともいう)を使っている。木小屋は粗末な造りで、粗朶(そだ)などを入れておく。
母屋の背後を背戸(せど)といい、ここには井戸と味噌小屋、および裏山との境の所にはいも穴がある。井戸を母屋の背後に置くのは、勝手場に近いためで、その設ける位置は、母屋の東西の中心をはずれればよく、特に鬼門の方角であるウシトラ(東北)よりやや北寄りの所に設けるのが最もよいとされている。味噌小屋は、自家製の味噌を貯蔵しておくための小屋で、味噌を自給していた一昔前までは、どこの農家にでも建てられていた。この味噌小屋は以前、門とあまやとの間に建てられていたものを移築したものである。味噌の保存には、冷温であることが第一条件であり、そのため多くは土蔵や板蔵形式の建て物になっているが、この家の場合は、板蔵形式のものである。
母屋の西側にある蔵(くら)は、下半分が石造り(亀山石)、上半分は白壁造り、屋根はトタン葺きとなっているが、建築当時は茅葺きで、白壁のところは荒壁のままとなっていた。一階は穀物入れ、二階は衣類・寝具・什器類の貯蔵・保管に利用している。蔵は、イヌイならびにタツミ蔵がよいといわれ、この家ではイヌイにあたる所に建てられている。
これらの建物のほかに、かつては掘立形式の葉タバコ用のムロと隠居屋があった。
母屋の前面南側には、庭とセンザイバタケがある。庭は現在さほどの重要性をもっていないが、農業機械が導入される以前までは、脱穀・乾燥の場として利用された。当時は赤土でつきかためられ、常に石ころが入らぬように掃き清められ、雨の日下駄で入ることは、庭を荒してしまうということで、きつくいましめられていた。センザイ畑は自家用の野菜をとる畑である。
母屋の背後には、屋敷林がある。冬の北風を防ぐことを第一義とした防風林であるが、広大な屋敷林からは、杉・欅など有用な建築材もとれた。この家では屋敷林を裏(うら)山と呼んでおり、この中には、屋敷神である稲荷のほこら、ならびに墓地がある。
母屋の間取りと部屋の機能 茅葺き寄せ棟・グシには煙出しを設けた、南面して建つ民家である。間口が一一間(約二〇米)、奥行き五間半(約一〇米)、建坪五五坪(一八一・五平方米)と、この地方では大きい方に属し、中でも台所の広いのが目立つ。推定約百五十年を経た家と思われるが、昭和三十年~四十年の間に台所をはじめ大きく改造している。間取りは、一七畳半という一きわ大きな勝子(かって)があり、その周りに表座敷・座敷・納戸(なんど)・部屋(へや)が位置する。県北地方特有の典型的な、広間型に属する間取りである。
各部屋の機能についてみると、台所への入り口は、現在、中間の柱を境にして、西側と東側とにそれぞれガラス戸の入り口があるが、約十年前の改築以前には、図のように真中の板壁をはさんで、東西に一間(一・八米)幅の入り口が設けられていた。東側のウマヤに近い所の入り口は、一間幅の大戸がたてられており、馬の出し入れは、ここを通して行なわれたという。一方西側の入り口は、三尺幅の板戸が二枚たてられた出入り口で、普段は人の出入りに利用された。入り口を入ると土間があるが、この家ではここを台所と呼んでいる。現在台所は板壁で二分されている。台所が広いのは、ここを麦打ちやわら仕事などの農作業の場、あるいは穀物や野菜の調整や、貯蔵の場などに利用したからである。台所の東南隅にはウマヤがある。この家のウマヤは、幅が九尺(約二・七米)、奥行き三間(約五・四米)で、他の家のものと比べると大きく、三頭の馬を飼育していた。馬の出し入れは、台所側に面した所からで、いったん台所に出してから大戸口を通って外に出した。うまやの背後には、風呂場がある。マヤゴエをねせるのに風呂の排水を利用したからである。風呂場のさらに背後、すなわち台所の北東隅には、セイヤと呼ばれる味噌・漬物・米などを貯蔵する物置きがある。毎日必要とするものを、いちいち味噌小屋や蔵へ取りに行くのでは不便なので、ある程度の量をこの炊事場に近いセイヤに持ってきておくのである。台所の西隅には、板張りがかぎのてにある。勝手と接する所は、もと一間(一・八米)幅の広さで、台所から勝手へのあがりはなとして利用される。この板張りの南側には、現在ガラス戸がたてられているが、ここは以前式台が設けられ、村役人などの出入りする玄関であった。広い板張りには幅三尺(約九〇糎)、奥行き四尺五寸(約一三六糎)程のイロリが切ってある。勝手のいろりを上のいろり、ここのいろりをシタノイロリと呼んでいる。ここには、鍋・鉄びんを下げるためのカギズルシ(ジザイカギ)が梁から下げられていた。この家のカギズルシは繩製のもので、他の家のものとは異なっていた。イロリの中には、アブリコと呼んでいる餅や魚を焼くアミ、あるいはつるのない鍋をかけるためのサントク、さらには消し炭を入れておくための火消しつぼなどが置かれていた。イロリでの火おこしは、まずマッチで点火し、杉っ葉やもや、あるいはつけぎで火勢を強めてからおこした。深夜など火を使わない時は灰かきで火種をうずめ、そのわきに鉄びんを置く。ここのイロリは、土間から直接踏込めるようになっている。イロリまわりを炉ばたと呼んでおり、土間側を木尻(きじり)といい、イロリの火をくべたり、台所の仕事にたずさわる若嫁の座とし、反対側を横(よこ)座と呼んで主人の座としている。入り口に面した所は客座で、客人がきた時には、ここに腰をかける。炉ばたは家族のだんらんの場、炊事の場、接客の場などに利用され、日常生活の中心の場である。イロリの北側の広い部分は食事の場で、北隅には備え付けの戸棚がある。板張りと、セイヤとの間の土間は、ながし、かまどが設けられ、炊事の場となっている。かまどはへッツイとも呼ぶ。大正時代頃までは土製のドベッツイで、それ以後は佐良土地内でとれる岩川(いわがわ)石を用いた石かまどであった。かまどは全部で三つあり、ひとつは味噌炊きや馬の水をわかすために用いた大釜用で、他は飯炊き用の五升釜用のものと三升釜用のものである。台所には天井が無く、吹きぬけになっている。葉タバコを栽培していた時は、この梁下に連干しの葉タバコを吊したものである。
ジザイカギいろいろ
勝手は現在十七畳半程の広さであるが、以前は間仕切りが有り、二分されていた。ここにもイロリがあり、台所のイロリと区別するため、ウエノイロリと呼んでいる。普段はほとんど使用せず、人寄せや村の寄合いの時に利用される。また、正月、盆の時には、このまわりで食事をする習わしであるという。勝手は、寄り合いや接客の場、あるいは晴れの日のふるまいの場、さらには針仕事や葉タバコの乾燥の場など幅広く利用されている。
勝手の北側の部分を部屋と呼んでいる。衣類・布団の置き場に利用されているが、お産の場にも利用された。
表座敷・座敷は晴れの日の人寄せの場として利用されたり、客人の寝室など、主として対外的な場として用いられた。特に座敷は、三々九度の盃事の行なわれる場、葬式の祭壇の設けられる場となった。なお、嫁入りや出棺の場合の母屋への出入りは、外縁(そとえん)から表座敷を通じて行なわれた。
座敷の北側には納戸(なんど)がある。現在西側回り縁との境には障子がたてられているが、以前は板壁造りで小さな窓があった。ここは部屋と同じく家財道具置き場になっている。