五月も中旬になると、田植はほとんど終り、僅かに水苗代で手植えの所が、少し残っている位のものである。田植がこのように早くなったのは、昭和四十年代からで、早期栽培が普及し、更に昭和五十年頃を境として、急速に田植機の進出を見るに至って、その時期は一層早まって来たようである。
それまでは、五月下旬の田植は早い方で、最盛期の六月上旬から中旬にかけては、猫の手も借りたいと言われる程、一年中で農家の一ばん忙がしい時期とされていた。昭和三十年代初め頃までは、小学校にも農繁期臨時休業というのが認められ、三年生位から上の農家の児童は、それぞれ家の留守居とか、子守り、そのほか田んぼの手伝いなど、それ相応の仕事をやらされたものである。なかでも鼻取りはたいへんだった。これは、代掻きをするのに馬に馬鍬(まんが)を引かせ、手綱をとって田んぼの中を歩かせる仕事で、馬鍬を押していく役が馬鍬とり、手綱をとる方を鼻取りといった。「鼻取棒かわせばすなおに脚あげて馬は水泥(みどろ)の浪ちらすなり」(元傘松農場主、平田松堂)、歌に詠まれればこのように趣もあるが、どうして子どもにとっては、なかなかの重労働であった。
この頃までは馬耕が主であったから、農家という農家には馬がいて、その飼料としての朝草刈は農家の日課でもあり、田んぼの周囲の土堤は何時もきれいになっていた。それが昭和三十年代も終りに近く、いわゆる高度経済成長時代に入ると共に耕耘機が普及しはじめ、やがて昭和四十年代になると次第に農家から馬の姿が消えていった。こうして農業も機械化の時代となるわけであるが、その反面には「機械化貧乏」という言葉も聞かれるようになった。
一方、早期栽培が広まるまでは、苗代(なわしろ)は四月末頃が目途とされ、苗代作りを終えて一息入れる八十八夜の日は、小学校の運動会が例年の行事のようになっていた。運動会が終ると、田うない、荒代、くろつけ、中代と田植までの準備が約一ケ月、いよいよ田植となればもう仕事の目鼻がついたわけで、実際のところはここまでがなかなか大変なのであった。
田植は農家のお祭りでもあった。赤飯をふかし、煮しめをつくり、隣近所や懇意の所へも配る。煮しめに欠かせなかったのはにしん、そこへ切干大根・こんにゃく・切こぶ・煮豆やふき・竹の子などの季節のものが添えられる。
当日の朝はふだんより早い。起き抜けに田んぼへ行く。股引をはいた膝の下と足首を、苗ばわらでしばって水の中へはいると、ひやりと水の感触が頭の芯(しん)に沁(し)みてくる。先ず苗取りが始まる。話上手な人でもいると面白おかしく笑わせられるが、手元の方は案外おろそかにはならない。一方では植代(しろ)を掻いたり、そのあとを均(な)らして苗を配ったり、植える準備を整える。
苗取りもあらましになり、八時も過ぎる頃、こじはんが運ばれてくる。起きぬけに来ている人には朝食でもある。膝から下の泥を洗って土堤へ腰を下ろす。まず主人公が水口へ行って、田の神へ御神酒(おみき)を上げ、それから振舞いとなる。近くで田仕事をしている人や、通りがかりの郵便やさんもご馳走に預かる。ここでも女の人は盛りつけたり、お茶をいれたり、終れば後片附け、乳児でもあれば、その間に乳も飲ませなければならない。お天気のよい日は順調にいくが、雨にでもなると大変である。結いや雇いの人がいるから、簡単に日延べはできない。折から梅雨どきで、手の凍えるような寒い日も珍しいことではなかった。
こじはんを終え、一休みして田へはいる。いよいよ植え方である。たいていは結いの人や手間(てま)を頼んであるから、小さい田植でも一〇人は越える。すげ笠をかぶった五月女の一隊が、一列横隊に並んで植えていくさまは美事なものであった。新しい絣の山着に紺の股引、赤いたすき姿の若い娘や嫁さんでもいるとひときわ目立つ。そこへ歌の達者な人がいて田植唄でもはいると、一そうはずみがつくというものである。
然し、現在では、このような光景はほとんど見られない。機械を使えば夫婦二人で、十数人分の仕事を軽くこなすことができる。多人数の賄の支度も要らないから主婦の仕事も楽になった。炎天に背を灼かれながらの除草に、一時除草機がとって代ったが、現在は除草剤の時代である。そして田植後の田んぼには、あまり人影が見られなくなった。
昭和四十年代後半になると、バインダーが普及しはじめたが、現在では主役はコンバインに移りつつある。大正の終り頃から、千ば扱きに代って足踏み脱穀機が出来、戦後は脱穀調製の動力源として、石油発動機が一般化した。いまは電力も使われる。脱穀した籾は、すぐ乾燥機にかけられるので、庭一杯筵を拡げて籾を干す手間も省けるし、昭和初期頃までのように、昼は脱穀夜は夜中まで磨臼(するす)ひきということもなくなった。今日コンバインで刈れば、明日は白米にできるのである。
光丸山の祭礼は旧暦十一月十三日で、佐良土周辺では、この頃を秋じまいの目処(めど)にしていた。今では遅くも十月中にはすっかり片が付く。そして次の日からは、出稼ぎの仕事が待っているのであるが、今後このような農外収入の道が、何時まで続くかは問題であろう。
○田植唄
〽 鎌倉にのぼる道 椿植えて育てた
雨降らば雨宿り 照らば涼みどころに
〽 あれ見っさえ むこうをごらん
蟻(あり)がだいもじひいてくる
エンサコレワイサとひいてくる
〽 那須の与一は三国一よ 男美男で旗頭
那須の与一は三国一よ ほんによくでた
男美男でよ旗頭
〽 城はよい城 大坂の城は 四方白壁八つ棟造り
前は淀川船が着く 船がつくのは昔のことよ
今はどろ川 どじょうが住むよ
〽 五月野に咲くあざみの花は
色はよけれど寄れば刺す
〽 坊様 坊様 なばかり坊様
今朝もあげやで玉子酒(朝うたう)
〽 日暮れ小松原しょなしょな行けば
松の露やら涙やら
〽 向う山にわらび取るは 人の嫁か娘か
嫁ならば送り申そう 娘ならば貰いましょう。