佐良土にある正覚山実相院法輪寺は、通称光丸山として近隣近郷の人々から親しまれている。この寺は、神仏習合の名残りを今にとどめる信仰を持つことと、北関東最大といわれる天狗面が奉納されていることで知られている。
この光丸山の大祭は、戦前は旧暦の十一月一日から十五日におよぶ長い祭典であったが、現在は新暦の十二月十二日、十三日、十四日の三日間となっている。かつては当番地区の行人は一週間程、近くの川で昼夜三回の水垢離をとり、五穀、塩物、火の物を断つなどのきびしい行をし、精進潔斎をしてから祭にのぞんだものであるが、今はそのようなきびしい行はなくなってしまった。
十二日は早朝、中の院から本堂への神輿の遷座が行なわれる。祭りの本番は大縁日である十三日で、この日を本祭りといって、早天大護摩焚、大般若六百巻の転読が行なわれ、佐良土宿内をねり歩く神輿の渡御でクライマックスとなる。天狗面をつけ、高足駄をはき、手に矛を持った猿田彦の先導で、僧侶、白の行衣をまとった行人のかつぐ神輿が宿内を渡御するさまは、那須の地に生きた先人の信仰の深さを感じさせる。この日の晩は植木市がたち、愛好家を楽しませてもくれる。
なお、佐良土宿内では、十三日の本祭り前後一週間は、精進潔斎をあらわすため、魚肉をたべない習俗もある。
○かつての光丸山祭例
当番・強力
この祭礼は、佐良土の旧家三〇人が、一〇人一組となって当番となる。当番には本当番・送り当番・受取り当番があり、送り当番・本当番・受取り当番の順にまわって来る。
他に、強力(ごうりき)と呼ばれる人々が数人、佐良土内から希望して出る。強力には、年功から、隠居(いんきょ)、頭(かしら)と呼ばれる者が一人ずついた。ゴウリキは全員紺の行衣を着た。
準備
九日に当番は、精進固めといって酒魚を飲食して、その後膳椀を洗い清めて生臭を落した。
オンギョウサマ(御行様)と呼ばれる本当番と、強力が、当番の中の家を宿として、十日からオガイバという所で水垢離(ごり)をしてオノット(祝詞)を唱え、行を始める。また本当番は強力を使ってゴクウマイ(御供米)集めと称して、一戸三升のもみを集めた。なお、宿には当番旗としめをはった。
近隣から行に来る行者は、九日から塩断ちして、米の粉と干柿で作ったオカロコというものを食べて行におり、十一日に光丸山へ来た。
オギリヒ
十一日に、光丸山で太陽光から火をとり、その火をオギリヒと呼んでそれを使って炊事をマカナイジョ(賄所)で始める。そして光丸山へ来た行者に十一日には生味噌におかゆ、十二日は白めし、十三日には赤飯を出してふるまい、そこへ籠って行をした。このオギリヒを使う十一日から十五日までは、佐良土内では、一切の針仕事はしない。
裸まいり
十日の夜、天候が無事であるよう祈願して、裸まいりが行なわれた。これは、本当番が六尺一本で水垢離をした後、夜の九時すぎから宿中をまわり、その途中、北の方の光丸山にむかってオノットをあげ、その後本堂へ行って護摩焚の終るのを裸のまま待って、それからもう一度水垢離をして終った。
渡御(とぎょ)
十三日に度御が行われる。先頭に受取り当番が香箱を四人でかつぎ、頭(かしら)が長さ三間ほどのイッポンボンデンを持って続き、住職、僧侶、強力のふんした天狗が二人、送り当番のかついだ神輿が続き、最後に行者がつく。この行列は大日堂から出発して宿中をまわり、奥の院へむかう。イッポンボンデンは、宿中をまわる時、上から行列を見ている者があると下へおろさせたが、一の鳥居からは川の中を奥の院へとむかった。他は参道をそのまま登った。この時、佐良土の人々は、大日如来の旗を各家毎に作って、それを持って行列に続き、村内安全、家内安全を祈願した。
この渡御の先に、隠居は奥の院へゴジンシュ(ドブロク)を持って上り、行列の人々にふるまった。
後始末
十四日は、宿へ戻って後始末をし、十五日にゴ(オ)ダンギフルマイと称して本当番が強力や家族の者などにふるまった。
また行者は、寺の小僧に、キッツァゲといって火打石でうってもらって、行衣を寺へ納めた。
十一日から十五日の間は生臭は一切食べられず、こっそり食べていると強力にみつけられおこられたという。