かつては佐良土地内の三部落(仲宿・古宿・田宿)でそれぞれ一本づつ、長さが八十米、直径が最も太い部分で四、五〇糎の大繩を作り、仲宿対古宿田宿、古宿対仲宿田宿、田宿対仲宿古宿という対戦方法で行なっていた。
この大繩の材料は、村内農家から集められた稲藁を使う。この藁あつめは七月に入ると子供達によって行なわれ、繩もじりの場所に集められて、子供や老人、婦人などの協力で小さなくびりの束にされ十四日の朝を迎える。
繩をよりあげることをモジルという(次頁写真)この繩もじりは一〇人以上の屈強な若者が十四日の早朝より大木の又を利用したりヤグラをかけたりして行う吊下式の繩よりで、その場合自分達の方は引きやすいように細く、相手方を太くもじった。この大繩ができあがると繩引きの行なわれる、それぞれの宿の道路わきに繩を運んで行き、夜を待つ。
大捻繩引きの繩もじり
この繩引で勝てば、その部落は豊作、家内安全、村内繁栄との俗信があり、特に佐良土の鎮守諏訪神社の祭り当番宿は、後日行われる例祭に奉納される村相撲の土俵にこの繩が使われるので、なんとしても勝ちたいと願い、他の宿より一層努力する。部落の老若男女総動員で繩を引き合い、近隣近郷からの見物人も加わって熱をおび、時には夜通しやっても勝負がつかず明日に続行したこともあった。順序は仲宿・田宿・古宿である。
大捻繩引き
この行事も交通量の増加により、昭和四十年から一時中断、後に月遅れ盆の八月十四日と日程も改められ、大繩一本だけで競い合うという形で再開されたが、同五十年に再び中断、五十三年に五分間引き合って一五分間は車を通すという条件で、又行事が行なわれ始めた。
この行事の発生については、八幡太郎義家が奥州征伐の際この地に宿泊したときにはじまったとか、永正十七年八月白河城主結城義永と那須資房が繩釣台で戦ったことにはじまるなどの言伝えがある。
左に昭和五年当時の記録を載せる。
大繩曳(だいもじひき)
湯津上村大字佐良土ニテハ、毎年陰暦七月十四日(旧盆十四日)ニ田宿・中宿・古宿ノ三組ニテ各々一本ノ大繩ヲ縒(ヨ)リテ其ノ夜曳キ合フヲ例トス。之ヲ大繩曳(大捩ヨリ来)ト称シ有名ナリ。同日未明ヨリ小年団員ハ、自己ノ組内ヨリ戸毎ニ藁数把ヅツヲ貰ヒ集メ、之ヲ荷車等ニテ繩縒リ場所ニ集ム、集メ終レバ、之ヲスグリテ水ニ浸シ「ヒックビレ」ト称スルモノヲ作ル(三、四〇ノ藁ノ中二、三本ヲ半分程引キ出シテ之ニテ先ヲ細ク、グルグル巻ク)此ノ作業終ル頃ハ約二三時頃、此ノ時中老青年各家一人位宛出動シテ之ヲ縒ル、(高キ場所ヨリ下ゲテ、ヒックビレヲツギツツ三人乃至七、八人位同時ニ力ヲ入レテ縒ル)、直径三、四〇糎、長サ約百米位ニシテ止ム、夕方終ル、夜ニ入リテ人々ノ集ルヲ待チテ曳キ合フ。大抵九時頃始ム。(曵クトキ一方ヘ一組、他方ヘ二組ノ方法ニテ各組リーグ的ナリ)。老若男女皆出テ曳キ、曵キトラルルヲ心配ス、見物人近郷村ヨリ来リ道ノ両側ニ人ノ山ヲ作ル(見物人ノ手伝イ勝手)、斯クシテ三本ノ繩ヲ曳キ終ル頃ハ心身綿ノ如ク疲レ翌朝ノ二、三時ニナル(繩ノ切レルヲ喜ビ以テ豊年満作ノ兆トナス)。
抑モ此ノ大繩曵ノ由来詳ナラザルモ、伝フル所ニ依レバ遠ク永正十七年八月、白河ノ城主結城義永一五〇〇騎ヲ率イテ烏山ノ城主那須資房ヲ攻ム。資房義永ノ来リ攻ムルヲ知リ、兵ヲ出シテ繩釣台(今ノ那珂村浄法寺)ニ大イニ戦ヒ義永ノ軍ヲ大イニ破レリトイフ。蓋シ之ノ時箒川ヲ挾ンデ闘ヒ義永ヲ攻ムルニ当リ、崖高クシテ下リル能ハザリシ為メ大繩ヲ縒リテ之ニテ那須ノ兵下リテ川ヲ渡リ義永ヲ破リシナラン。戦後時ノ人(佐良土民)此ノ繩ヲ珍シク思ヒ、曳キ合ヒタルニ繩切レタリ。其ノ年不思儀ニモ稲作ヲ始メスベテノ作良ク出来タルヲ以テ、之ノ繩曳キノ故トシテソレヨリ毎年大繩ヲ縒リテ曵キ合フニ至リシナラントイフ。斯ク大繩ヲ曵ク所他ニ二、三アリト聞クモ、真ニ面白キ遊ビニテ社会ノ大運動(民衆体育運動)トシテ最モ誇ルベキモノト信ズ。(湯津上村連合職員会郷土研究―昭和五年当時―)