庚申講

495 ~ 496
湯津上村の庚申講は、「こうしんさま」、「おごしんさま」、「かのえさま」などと呼ばれ、他の講集団に比較して講中の数も多く、ほぼ全村にわたって行なわれている。講への参加は、数軒から多いところでは三〇軒以上を数える講中もある。
 日どり もとは六十日ごとにくる庚申(かのえさる)の日に必ず開かれた。現在も引き続いて遵守している講中もあるが、春(初)庚申・秋庚申に分け、年に二回もしくは一回と回数を減らした講中も多い。
 出席者 講に出る人は、普通シンショウモチと呼ばれる一家の主で、代理の場合でもその息子をたてる。「庚申様は赤不浄を嫌う」という講の禁忌と関連してか、男だけの集まりという意識が強い。
 集会の場 当番になった家を宿(やど)と呼ぶ。宿は輪番で、家並順にまわっている。どの講中も米を集めることになっているが、その時がふれのかわりとなる。米の収集は、庚申日の前日か当日の朝行なう。
 掛軸と供え物 どの庚申講にも掛軸が一本ずつあり、そのほとんどが青面金剛像を描いたものである。掛軸は、講を行なう部屋の入り口の正面にかけるか、床の間がある部屋ではそこに掛ける。供物として、団子・ご神酒(じんしゅ)、それに出席者と同じ当夜のご馳走が供えられる。

庚申講掛軸(下蛭田)

 講の性格と拝み方 農家であれば無償で講に加入できるとか、逆に農家をやめると庚申講もやめる等の慣習からも、庚申様は作神として位置づけされている。事実どこの庚申講でも、庚申様は作神様であるといわれている。また庚申様は赤不浄を嫌うという性格もある。
 掛軸への拝み方は、それぞれの講中によってまちまちである。かしわ手を打ったり合掌したり、線香をあげるところとそうでない講中があったりというふうに、近い地域の庚申講の中でも相違が見られる。
 掛軸を拝み終えると、年長者順になっている座につく。現在どの講も午後七時頃から始まって十時頃終了するが、以前は泊りがけで朝まで行なっていた。また参加者が大食を強要される強飯行事が行なわれた。
 料理 最近では、刺身や煮魚などのなまぐさ物も自由に使うが、本来は精進料理のみであった。料理は、飯・汁の外にのっぺ・がんもどき・煮しめなどをそれぞれ壺(つぼ)・平(ひら)・皿にもり、膳に配してだす。膳椀は講備え付けのものであったり、個人個人のものを使用したり、各講中によっていろいろである。料理の用意は近所の女達が手伝ってするが、順序よく家並がそろっている講中では、前当番・受け当番・裏当番で準備する。
 庚申塚 現在でも十二年に一回は、まるめ庚申といって盛大に祝い、庚申塚を築く講中もある。塚を築いた場合は、神主にお祓いをしてもらい、紅白の餅をまいて祝う。塚の大きさは、高さ五〇糎、直径一米ぐらいのものから、高さ一米、直径三メートルぐらいのものまでさまざまである。
 庚申塔 青面金剛像が彫られている庚申塔と、文字が刻まれている文字庚申があり、中の原など新しく開墾された地区以外は、どこででも見ることができる。庚申塔には塞(さえ)の神(道祖神)的な意味も含まれているといわれ、六十年ごとに建立するならわしがある。

庚申塔(湯津上)

 庚申講に関する禁忌・俗信
○「庚申の日にはきたないことをするな」
講に参加する者は、こえ出しなどはせず、必ず風呂に入ってからやってきたり、手を洗う、口をそそぐなど身を清めて掛軸の前へ出た。

○「庚申様は赤不浄を嫌う」
当番宅に出産(妊娠五か月から産後一か月まで)があるときには、宿を次に回してしまう。逆に死人は転がしてもやれという言葉が残っている。

○「寒ざるは拝むな」
寒にぶつかったときは、十二日前の申のつく日に行なってしまう。これを前(まえ)ざる・前ざらなどと呼んでいる。

○「途中で地震があるともう一度やり直し」
もしも庚申講の途中に地震があった場合は、その翌日同様に行ない、完全に終了させねばならない。