明治五年地方制度の末端単位として大小区制が布かれ、宇都宮県は管下四郡(河内・那須・塩谷・芳賀)を分画して七大区、七十六小区とし正副戸長を配置した。
戸長は前述のように、戸籍法に基づいて戸籍係として設定されたものであるが、のち大小区制や郡区町村編成法によって、土地・人民に関する一切の件を取扱うようになった。だいたいは旧庄屋や名主等の中から官選されたが、その後、明治二十一年の町村制に至るまで、民選や官選と任命形式に変化はあったが、その地位と任務は、政府の行政官であると同時に町村民の代表者でもあった。また町村の財政負担の事情などにより、次第に数か町村が連合して、戸長と戸長役場を置くことが多くなったようである。つぎに判明している戸長名を掲げる。
鈴木章四郎(片府田)大久保万次(片府田)渋井平十郎(新宿)
大野佐平太(下蛭田)蜂巣伊造(下蛭田) 蜂巣市重(下蛭田)
吉成慶安(蛭畑) 吉成万次郎(蛭畑) 吉成兼太郎(蛭畑)
吉成伊十郎(蛭畑) 石沢小平太(佐良土)深沢惣吾(湯津上)
花塚惣三郎(小船渡)郡司定重(佐良土) 花塚善三(小船渡)
遠藤彦四郎(狭原) 島村賀堅 結城四郎
平野誠一郎 小山忠録(黒羽)
括孤内は旧村名で、小山忠録は黒羽町外六か村兼湯津上村外八か村戸長として、新湯津上村の誕生を見届け、第一代村長鈴木章四郎に村政を委ねたものと思われる。
つぎに大小区関係と戸長に係る記録の一部を栃木県史より抜粋した。
大小区 | 郡名 | 村、町、宿名 | 小区戸数 | 正副戸長 | 住所 | 族籍 | 姓名 |
六ノ十 | 那須 | 佐良土村、蛭畑村、上蛭田村、福原村、刈田村、薬利村、恩田村、浄法寺村、新宿村、倉骨村、片府田村、狐嶋村、矢倉村、湯津上村、下蛭田村 | 五百三十六 | 副 | 福原村 | 農 | 阿久津金四郎 |
同 | 片府田村 | 〃 | 鈴木章四郎 | ||||
同 | 下蛭田村 | 〃 | 大野佐平太 | ||||
七ノ四 | 同 | 檜木沢村、蜂巣村、余瀬村、北金丸村、南金丸村、大豆田村、狭原村 | 五百四十九 | 正 | 黒羽 | 士族 | 土屋鼎之助 |
小船渡村、八塩村、上滝田村、下滝田村、寺内村、湯殿村 | 副 | 北金丸 | 農 | 松本惣八 | |||
表亀山村、山田村、入亀山村、大久保村 | 副 | 山田村 | 農 | 斎藤仙一郎 |
明治五年八月二十三日付で村惣代を設置した。
明治六年八月十五日宇都宮県が栃木県に合併されたことにより区画を改定した。
第三大区六ノ小区
第四大区三ノ小区二十五ケ村
第四大区七ノ小区二十三ケ村
旧宇都宮県管下ニ戸長副、用掛ヲ置ク
明治六年九月二日第三大区ヨリ第六大区ニ至ルマデ、各小区ニ正副戸長ヲ置キ、右区内各村、町、宿ニ用掛ヲ置ク
伍長心得書
明治八年十月二十一日
一、伍長ハ其伍中ヲ一家ノ如ク懇切ニ世話致シ、専ラ和順協議ヲ旨トシ、御趣意ヲ遵奉シ農事家業ヲ専ラ相励マシ、百之細事ニ至ル迄篤ク注意シ、安全保護スル事緊要タリ
一、伍中戸籍ノ出入、或ハ寄留他行等ノ義ハ、用掛戸長副ヘ可二届出一ハ勿論ト雖、其都度篤ト聞糺シ置、他日不都合ノ生ゼザル様注意スベシ
一、御布告等相達スル時ハ、御趣意徹底候様篤ト注意シ、若了解シ難キ儀有之節ハ、戸長副等ヘ質問スベシ
一、租税并諸上納等取立ノ節ハ、伍中ヲ精々世話致シ、無滞上納致サスベシ
一、伍中火災等非常ノ事及病難其外困陀ノ儀有之節、相互ニ助ケ合混和共救ノ儀主トナリテ相謀ルヘシ
一、伍中若シ遊惰ニ流れ産業ヲ怠り、或ハ洒色ニ溺ルヽ者等有之節ハ、篤ト教戒致スヘシ
一、伍中諸願伺等重事ニ関係スル分ハ連署スヘシ
右之通候事
那須郡佐久山宿・藤沢村・下河戸村・河戸新田・大神村・小種嶋村・滝野沢村・宇田川村・三色手村・上沼村・岡和久村・滝沢村・青木 若目田村・平沢村・蛭畑村・上蛭田村・下蛭田村・片府田村・福原村・倉骨村・新宿村・上河戸村・三斗内 鷹之巣村・中居 八木沢村・薄葉村・西戸野内村・和田村
第四大区三ノ小区二十五ケ村
那須郡谷浅見村・中山村・八ケ平村・大桶村・白久村・高岡村・片平村・東戸田村・三輪村・志鳥村・谷田村・小川村・吉田村・恩田村・浄法寺村・薬利村・刈田村・小郷野村・沼畑村・高畑村・一本木村・大滑村・船沢村・大沢村・佐良土村
第四大区七ノ小区二十三ケ村
那須郡阿久津村・石井沢村・前田村・堀ノ内村・大輪村・野上村・狐島村・湯津上村・檜木沢村・蜂巣村・余瀬村・北金丸村・南金丸村・大豆田村・狭原村・小船渡村・八塩村・上滝村・下滝村・山田村・亀山村・入亀山村・寺内村・湯殿村
旧宇都宮県管下ニ戸長副、用掛ヲ置ク
明治六年九月二日第三大区ヨリ第六大区ニ至ルマデ、各小区ニ正副戸長ヲ置キ、右区内各村、町、宿ニ用掛ヲ置ク
伍長心得書
明治八年十月二十一日
(一組は五戸を以て組織したが、其の地の便宜上、十戸乃至十四五戸になっても差支えないことになっていた)
一、伍長ハ其伍中ヲ一家ノ如ク懇切ニ世話致シ、専ラ和順協議ヲ旨トシ、御趣意ヲ遵奉シ農事家業ヲ専ラ相励マシ、百之細事ニ至ル迄篤ク注意シ、安全保護スル事緊要タリ
一、伍中戸籍ノ出入、或ハ寄留他行等ノ義ハ、用掛戸長副ヘ可二届出一ハ勿論ト雖、其都度篤ト聞糺シ置、他日不都合ノ生ゼザル様注意スベシ
一、御布告等相達スル時ハ、御趣意徹底候様篤ト注意シ、若了解シ難キ儀有之節ハ、戸長副等ヘ質問スベシ
一、租税并諸上納等取立ノ節ハ、伍中ヲ精々世話致シ、無滞上納致サスベシ
一、伍中火災等非常ノ事及病難其外困陀ノ儀有之節、相互ニ助ケ合混和共救ノ儀主トナリテ相謀ルヘシ
一、伍中若シ遊惰ニ流れ産業ヲ怠り、或ハ洒色ニ溺ルヽ者等有之節ハ、篤ト教戒致スヘシ
一、伍中諸願伺等重事ニ関係スル分ハ連署スヘシ
右之通候事
明治九年四月二十一日、町村の用掛を廃し更に正副戸長を置いた。伍長は公選となった。
各村伍長定方之儀、是迄区々ニ相成居候向モ有之哉ニ相聞、不都合之次第ニ付、自今伍中一同公撰ヲ以相定候様可致、此旨布達候事
栃木県令鍋島幹代理
栃木県参事藤川為親
栃木県令鍋島幹代理
栃木県参事藤川為親
明治十一年十一月八日、大田原駅に郡役所を置き、那須郡一円を管轄し、那須郡長に藤田吉享が任命された。
明治十二年五月十日、各町村毎ニ戸長役場を設置した。尚町村毎に公選を以て戸長一員を置いた。
明治十六年一月十五日、戸長一員を公撰の件廃す。
明治十七年七月一日
今般太政官達ノ趣モ有之候ニ付戸長撰挙法自今別冊ノ通リ相定候条此旨布達候事
栃木県令 三嶋通庸
戸長選挙法(略)