6 湯津上村役場の変遷

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 明治十八年二月、大字湯津上に役場を置くこととなり、佐藤寅松所有家屋を仮に借用し、明治二十年三月植竹已之吉宅に移転、明治三十三年九月木村貞蔵宅に移した。
 その後、大字湯津上永山秀夫より敷地六五坪の寄附をうけて庁舎の新築がなされ、明治三十四年十二月二十日、新庁舎へ移ったのである。
 明治三十一年七月、戸籍役場を、同三十八年七月には農会を併置した。
 昭和二年十二月二十四日、火災のため全焼。戸籍簿・土地台帳その他重要書類を全焼した。同年十二月二十八日、花塚已之吉の新宅を借用仮役場として事務を再開して昭和五年七月二十八日までつづいた。
 昭和五年八月五日、新庁舎を佐良土八五三番地(現在所在地)に新築落成と同時に移転し現在に至る。

湯津上村役場庁舎


改築前の湯津上村役場

 戦時中は、農業会も役場内で事務をとったが、終戦と同時に狭原根本に在った軍の建物を払下げ、役場の東隣の畑地を郡司寅三より借用、建築移転したが、昭和二十二年農業協同組合法の発令により、村内三農協に分離されてこの建物は解体された。
   大正十二年度事務概要報告
一 大正十二年八月十一日、皇太子殿下笠石神社・傘松農場ヘ行啓サレル。
一 大正十二年九月十九日、収入役就任、同二十一日助役ノ収入役事務兼掌事務引継ヲナス。

  同年十月二十七日、村長永山秀夫死亡セリ。
一 大正十二年九月一日、東京府外三県大震災ニ付救恤金品其ノ他ノ事務ヲ取扱フ

一 吉成三五郎村長ニ当選、大正十二年十二月十三日認可ニ付同年十二月二十日事務引継ヲ了ス。

一 村会招集       二十六回
一 兵事ニ関スルモノ   二百五十一件
一 学事ニ関スルモノ   二百十一件
一 衛生ニ関スルモノ   百六十一件
一 農工商ニ関スルモノ  二百十五件
一 地理ニ関スルモノ   三百五十一件
一 財務ニ関スルモノ   二百七十件
一 土木ニ関スルモノ   五十二件
一 社寺ニ関スルモノ   四十三件
一 選挙事務ニ関スルモノ 三十三件
一 部長令達ニ関スルモノ 八十六件
一 部内令達ニ関スルモノ 百五十件
一 統計ニ関スルモノ   三百二十八件
一 人事ニ関スルモノ   二百二十五件
一 其他ノ雑件      八百六十四件
    戸籍ニ関スル件
一 出生  二六二人   一 死亡  一二一人
一 死産  一四人   一 婚姻  八八件
一 離婚  六件    一 出寄留  八六九人
一 入寄留  四〇二人   一 家督相続  二二件
一 養子縁組  一八件   一 分家  一九件
一 隠居  二件   一 其他  一九件
本籍人口     六、一一五人 内(男 三、〇一九人 女 三、〇九六人)
現住人口     五、六四八人  (男 二、八一二人 女 二、八三六人)
現在戸数     七一四戸
  右概要報告候也
    大正十三年二月二十一日
            湯津上村長  吉成三五郎
基本財産 弐万九千七百拾六円四拾銭弐厘
 内訳
一 金参百四拾円也  本村基本財産栃木県農工銀行株券
一 金弐万八千百八拾四円四拾五銭弐厘 本村基本財産預金
一 金壱千百八拾七円九拾五銭      本村学校基本財産預金
村有土地拾四町五反拾五歩
  概  壱万壱千六百四円也
   明治三十九年事務概要報告
一 学事ニ関スルモノ   五百八十件
一 兵事ニ関スルモノ   千三百五十件
一 戸籍ニ関スルモノ   二千三百八十件
一 租税ニ関スルモノ  凡四万五千件
一 地租ニ関スルモノ  凡五千件
一 衛生ニ関スルモノ   五百五十件
一 農商工ニ関スルモノ  千五百件
一 土木ニ関スルモノ   五十件
一 統計ニ関スルモノ   五百六十件
一 衆議員県村郡会議員選挙ニ関スルモノ 五十件
一 村会ニ関スルモノ   五十二件
一 雑件         五千二百件
  右報告ス
    明治四十年三月廿八日  村長  杉井学時

 
 明治十年七月戸長役場第四事務処(戸長大野佐平太、蛭田村)の管内の戸数は次の通りである。
  一 戸数 三拾四戸  片府田村
  一 〃  三拾二戸  倉骨村
  一 〃  二拾戸   新宿村
  一 〃  八拾六戸  福原村
  一 〃  七拾戸   蛭田村
  一 〃  三拾八戸  蛭畑村
  一 〃  九拾四戸  佐良土村
(大野アイ家所蔵文書)