(一) 明治二十二年最初の選挙法 二五歳以上の男子で、一年以上直接国税一五円以上を納め、かつ一年以上その府県内に本籍と住所をもつ者に選挙権を与えた。有権者の総数は約四五万であった。選挙区は一人一区の小選挙区制で、大体郡および市が一選挙区となった。まれに一選挙区から二名を選出するところもあったが、その場合は二名の氏名を書く連記投票制であった。
投票は被選挙人の氏名を書くほか投票者自身の住所・氏名を書く公開投票制であった。
(二) 明治三十三年の改正 選挙資格の納税額の制限を、一五円から一〇円に引下げたので、有権者数は一躍従来の約二倍の一〇〇万人に増加した。また小選挙区制を府県を単位とする大選挙区制に改めた。議員定数の配分は、大体人口一三万人に一人の割合であったが、市はこれを独立の選挙区としたので、人口三万でも議員一人を選出することができ、農民に比べて都市の商工業者に有利となったわけである。なお投票方法も公開制を廃して、投票者の氏名を書いてはならない秘密投票制を採用した。買収・暴力などの実質的選挙犯罪のほかは選挙運動になんらの取締規定もなく、まったく自由であった。
(三) 大正八年の改正 納税額の制限をさらに低下して、直接国税三円以上を納める者は選挙権をもつこととしたので、有権者の数は約三〇〇万となった。
(四) 大正十四年の改正 はじめて納税額による選挙資格の制限がなくなって、満二五歳以上の男子はすべて選挙権をもつことになり、普通選挙制が確立した。
有権者は全国民の二一%となった。なおこのときから議員定数三名ないし五名の中選挙区制に改められた。注意すべきことは、このときから選挙運動の全面的規制がなされたことで、さらにその後昭和九年の改正によって、選挙運動の取締・罰則が強化され、それが時の与党によって反対党弾圧や妨害の手段として用いられた。
(五) 昭和二十二年の改正 太平洋戦争の敗戦後、民主主義の要求が強く起り、選挙法の大改正が行なわれ、選挙資格の年齢は満二〇歳に引下げられ、女子にも男子と平等に選挙権および被選挙権が与えられた。選挙区も原則として府県を一選挙区とする大選挙区制がとられ、投票方法も数名の候補者の氏名を書く制限連記制という珍しい方法がとられた。もっとも、まもなくこれは改められて、選挙区は現行の定数三名ないし五名の中選挙区制、投票方法は単記制に帰った。