わが国の医療保険制度は、公務員、勤労者等の被用者を対象とする被用者保険、すなわち健康保険と、農業、漁業、自営業者など一般住民を対象とする国民健康保険の二本立てで構成されている。
勤労者等を対象とする健康保険法は、第一次世界大戦後経済情勢が悪化し、国民の生活難や健康問題が深刻となり、社会不安が高まるなかで、大正十一年に制定されたものであるが、翌十二年の関東大震災で実施は延期され、昭和二年になって実施された。
この制度には、主に中小企業を対象とし政府が管理するものと、大企業等が厚生大臣の認可を得て設立し、健康保険組合が管理するものとの二種があり、前者を政府管掌、後者を組合管掌の健康保険といっている。
これに対し、一般住民を対象とする国民健康保険法は、昭和十三年四月一日、公布され、同年七月一日から施行された。その制度の背景は、当時の農業恐慌とよばれる慢性的不景気にさらされ、医療費負担の重圧に苦しむ農村や低所得住民を、地域的連帯感に基づく保険制度によって救済しようとして立案されたもので、わが国独特の地域保険である。創設当時は、市町村の区域を単位とする普通国民健康保険組合と、同一事業職種を単位とする特別国民健康保険組合の二つの形態があった。
しかし、当時は社会保障という観念に国民が目覚めていない時代であり、また、組合の設立及び組合への加入が任意であったほか、保険給付内容の範囲などが不明確であったため、一般住民の関心は極めて薄かった。その後、知事が必要と認めた場合は強制設立させ、組合員の強制加入などの制度化によって普及に務めた結果、終戦までに町村の部では全国の九八%以上にまで普及する成果をあげた。ところが終戦の混乱で大打撃を受け、制度崩壊寸前にまで至ったのである。戦後、数次に及ぶ法改正によって、基盤の確立、財政面の強化、保険給付の改善等、その再建が図られた。その主たるものとしては、昭和二十三年の改正において、経営主体を原則的に、これまでの組合から市町村に移し、市町村公営の原則を確立すると共に、被保険者の強制加入の建て前をとった。同二十六年には、従来保険料によっていたものを、地方税法の一部改正を行ない、新たに市町村税のなかに目的税として国民健康保険税を創設し、財政面の強化が図られた。同二十八年には、療養給付費の国庫補助制度を実現させた。更に、同三十三年十二月には、法の全面改正が行なわれ、いわゆる新法としての現行国民健康保険法が翌年一月から施行された。この新法の要点は、旧法では、任意設立で市町村の固有事務とされていたが、これを国の責務とし、市町村に委任して行ない、昭和三十五年度中に全市町村が実施しなければならないことにし、国民皆保険計画が法制面から明定された。また、医療給付の割合が法定化され五割とし、その財源上の責任において、従来の「補助制度」を「負担制度」に改め、療養給付費の十分の二国庫負担と百分の五の財政調整交付金制度が法制化され、更に、事務費の国庫負担制度が確立された。全国普及に特に問題となったのは大都市であったが、昭和三十六年四月には鹿児島県の一部町村を残して全国普及が達成され、国民皆保険が実現し、健保制度と並ぶわが国医療保障制度の大きな支柱となった。
栃木県においては、昭和三十五年四月に県下皆保険が達成された。新法になってからも改善が図られ、昭和三十八年十月一日から世帯主の七割給付が実施された。同四十年一月からは四カ年計画で全被保険者に対し七割給付を実施することにし、同四十三年一月に達成された。
湯津上村においては、昭和四十三年一月一日から全被保険者の七割給付を実施した。
しかし、こうした給付改善に伴って受診率の上昇、医療費の増加などによって、国民健康保険財政は極度に悪化し、国庫補助運動が強力に展開された。一部市町村からは国民健康保険返上論まで出てきた。国はこうした情勢にかんがみ、昭和四十一年度から国庫負担を定率四割として措置を講じた。
その後も幾多の改善が図られてきたが、なお、国民健康保険財政の収支は市町村によってかなりの隔たりがあり、保険税の負担に苦しい格差が生じている。これが均衡を図るため、標準保険料制度の導入が検討されてきたが実現には至っていない。近年においては老人医療無料化問題もあり、国民健康保険の運営は厳しい実情にある。
以上が国民健康保険制度の沿革の概要である。