3 町村合併問題の経過

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 新しい憲法とともに地方自治法の施行を始めとして、地方自治制度の骨格を形作る公職選挙法、地方公務員法、地方財政法、地方税法、地方交付税法等の法律が相次いで制定施行され、地方公共団体の組織及び運営に関する大綱は定まってきた。
 各地方公共団体は、法の本旨に基づいて民主的にして能率的な行政の確立を目指し、健全な自治体の発展に懸命の努力を続けてきた。しかし地方公共団体、特に行財政の小規模町村においては、その自主・自律性を強化しようと努力しても、その複雑化した事務を処理し、多様化した住民の要請に応えることは至難であり、その財源を自主的に求め得ることは到底不可能なことだった。昭和二十四年(一九四九)アメリカのシャウプ税制視察団が日本政府に対し、数次にわたるシャウプ勧告を提言したのが一つの動機となり、昭和二十八年九月一日「町村合併促進法」(昭和二十八年法律二百五十八号)が公布され、公布の日から一カ月を経過した日、つまり十月一日から施行されることとなった。
 この法律は、三か年の時限法であり、その目的と定義を次のように定めてある。
(目的)
第一条 この法律は、町村が町村合併によりその組織及び運営を合理的且つ能率的にし、住民の福祉を増進するように規模の適正化を図ることを積極的に推進し、もって町村における地方自治の本旨の充分な実現に資することを目的とする。

(定義)
第二条 この法律において「町村合併」とは、二以上の町村の区域の全部若しくは一部をもって町村を置き、又は町村の区域の全部若しくは一部を他の町村に編入することで町村の数の減少を伴うものをいう。

 法は、町村の人口規模をおおむね八千人以上としている。町村合併の狙いは、町村の区域(行政圏)を住民生活の基盤である生活圏又は社会圏と一致させることが理想であることの実践にほかならない。明治二十一年の市制及び町村制に先立ち、町村の大合併が強力に行われ、全国で七万一千余の町村が平均四、五町村をもって一町村となし、一挙に一万五千余に減少した史実がある。そのときの栃木県は、一二五七の町村を一七一町村に減じ、近代的地方制度の基礎が確立された。その後における経済・文化・交通等の著しい発達により、戦後においては、この町村の規模は不適当と判断されてきた。
 政府は、戦後の復興期を好機と考え、全国的な大合併により生活圏と社会圏とを行政圏に一致させ、高度化された町村行政の遂行を可能ならしめ、住民の福祉向上を図るとともに、国力の基礎を固める方針を決行したのである。
 時の内閣総理大臣吉田茂は、この法律の施行に際し記者会見を行ない、次の要旨の談話を発表し、政府の姿勢を示している。
去る九月一日、町村合併促進法が公布され、来る十月一日をもって施行されることとなったが、町村の規模を拡大してその適正化を図ることは、地方自治を強化するためにも、現在の複雑な行政の処理を簡素合理化するためにも、極めて緊要なことであって、かねて識者の指摘してきたところである。国民が深い理解をもって所期の目的が達成できるよう切望する。

 法律の施行に当り総理大臣が記者会見を行い、談話を発表するという政府の強い姿勢を受けて、栃木県も十月一日「栃木県町村合併促進審議会」(委員三十六名、会長・堤武雄=副知事)を発足させ、県の合併計画を諮問している。同年十二月十四日には、町村合併促進法の一部を改正する法律(昭和二十八年法律第二八七号)が公布施行され、具体的処理方法、町村合併を行った場合の財政援助の特例、知事又は内閣総理大臣の処分権能などの条項が補完された。同月十八日「町村合併基本方針」が閣議決定され、国及び県の行政上の体制は完備された。この基本方針には、次の諸点(抜すい)が書かれてあった。
(1) 町村の標準人口は八千人以上と法は示しているが、行政能率をなるべく向上発揮する見地から、具体的の実情に応じてできるだけ規模を大きくすること。町村の人口が八千人を上廻っている場合においても、他の弱小町村を解消し、その行財政能力の一層の充実発表を図るために適当と認められるときは、その合併を促進すること。

(2) 町村の合併は、単に個々の町村の個別的な利害を考えるのみでなく、全町村について広く国及び都道府県全体の立場から考慮し、全般的に均衡のとれた町村の規模の適正化を図るべきであって、いやしくも一、二の弱小町村が取り残される等自治行政の将来に禍根を残すことがないよう留意すること。

(3) 町村の合併は、専ら関係住民の福祉と町村の規模の適正化を基礎として、具体的実情に応じて行うべきで、郡の境界に拘泥しないように配慮すること。

 政府は広報宣伝を積極的に行なったが、その方法の中で「町村合併は、町村の自発的意思に基づいて行われるべきであることは、地方自治の本旨よりしても明らかであるが、今回の広報宣伝においても特にこの点に留意し、強制合併の印象を与えないように配意すること」と、各都道府県知事に文書で示していた。
 県は、これらの国の基本方針にそって、合併計画案を栃木県町村合併促進審議会に諮問したのである。審議会は、官民各層の識者が相寄り、翌昭和二十九年二月五日「町村合併計画第一次試案」を発表した。
 審議会は、この試案は関係町村が、合併問題を検討するに際しての具体的資料を提供することを差し当りの目的とするとし、町村合併は、町村合併促進法に規定する各種の優遇措置を他に優先して受ける点から、昭和二十八年度中(会計年度の三月三十一日まで)に合併を実現することが望ましいと説明している。更に、これを延ばす場合も会計年度の切替日に当る昭和二十九年四月一日、又は新憲法及び地方自治法の施行記念日である五月三日を選ぶように県民に呼びかけを行なっている。この試案は、更にこれを新聞等の報道により周知させることを期待するとともに、審議会の名において試案を図示したポスターの掲示を求めていた。
 この合併計画試案は、一六五の町村を四〇町村にするという、当時の住民を驚かせたものであった。試案の中で近隣町村に関する合併計画は次のような内容であった。
町村名合併予定人口(人)面積(平方キロ)備考
箒根村六、四一八八七、五〇箒根の一部は狩野村に入ることも考えられる。
塩原町四、八五四一〇三、〇〇
一一、二七二一九〇、五〇
狩野村一〇、二一四二四、三〇
西那須野町九、七八九三七、二〇
二〇、〇〇三六一、五〇
親園村五、三一七二二、五〇
野崎町五、九六九二四、七〇
佐久山町五、三四九二三、九〇
一六、六三五七一、一〇
大田原町一五、八六四一二、一〇
金田村一三、五四八五九、二〇
二九、四一二七一、三〇
川西町六、六三二一八、八〇
黒羽町八、三三二五三、二〇
須賀川村五、四二七七一、六〇
両郷村四、七九七四三、四〇
二五、一八八一八七、〇〇
伊王野村六、七四〇六九、九〇
芦野町四、八〇一四四、七〇
那須村一九、七〇〇二五七、五〇
三一、二四一三七二、〇〇
鍋掛村四、三八四三二、一〇
黒磯町一〇、九五二二七、一〇
東那須野村七、五七三三五、一〇
高林村六、八三八二五一、〇〇
二九、七四七三四五、三〇
小川町八、五八四三八、一〇湯津上村の一部は黒羽町に編入することも考えられる。
湯津上村七、七九九三二、八〇
一六、三八三七〇、九〇

 当時は、県の行政区は北那須が二〇か町村、南那須が一一か町村と分けられ、県の出先機関はその大半が大田原・烏山町にあった。この第一次試案の段階で、湯津上村はその一部が黒羽町へ編入するという分村合併の表明がなされた。たとえ試案とはいえ、「分村する」という事実は「郡の境界にこだわるな」「町村の個々の内情は若干無視してもよい」といった国の方針だからと説得しても、村民の心の中に流れる人間性を変えることが容易でなく、これが一〇年にわたる町村合併の意見対立を招き、現代の若い村民には理解できない意見、方法、そして考え方が、繰返し、むし返して吐かれ、試みられ、究明され続けたのである。本村がなぜ他の市町村に比し、県下で珍しい「村」のままでいるかを我々は書き記し、永劫の歴史の流れの中では、たとえ、それが発展を目指した一瞬の胎動であったにせよ、その事実を伝えるべきであるとの考え方から、その本流を忠実な記録により綴ることとする。
 北那須の二〇か町村の町村長・議長は、郡自体の合併試案の作成に入り、従来のブロック別の隣接町村が、各種の政治及び行政に関連した話題を持寄り、生活圏と社会圏を考えあわせて試案を作るべきだとの意見が強く、一応次のような郡試案を作成し、県計画試案の改正を迫る動きとなった。
1那須村・伊王野村・芦野町(人口)三一、五五六
2黒磯町・鍋掛村・東那須野村・高林村二九、九九七
3黒羽町・川西町・両郷村・須賀川村・湯津上村三二、三一〇
4大田原町・金田村二八、九一一
5親園村・佐久山町・野崎村・上江川村二一、九九三
6西那須野町・狩野村・箒根村・塩原町三一、六八〇

 この郡試案が出てから昭和二十九年三月にかけて、黒羽ブロックの五町村のトップ会談、事務レベルの会合が何回ももたれた。そして一方では、この郡案実現を県に働きかけ、住民への周知に努めたのである。
 村においても、合併の方向づけを急ぐことになり、昭和二十九年三月十八日「町村合併研究会」を組織し、とりあえず県試案に対する県の考え方と進め方について、県地方課長(大谷操)の説明をきくこととなり、佐良土小学校講堂において説明会が開催された。委員は七〇名で、各大字の代表的立場の者が選出されていた。
 同月二十四日には、改めて全員の話しあいが行なわれ、意見は「法治国家として町村合併促進法に規定する条項、手続きによって作成され、推進される県試案によるべきであるという建前論」、「民主主義だから住民の多数意思で合併を決定すべきであるという理論」、「長い伝統歴史、友好関係を貫くため、分村することなく郡試案によるべきであるという主張」がその主流を占め、統一された合併方向は結論が出なかった。
 同月二十八日、小川町長(白相一策)、同議長(鈴木市郎)の連署で村長(菊地啓重)、議長(花塚善蔵)あてに、町村合併についての具体的な促進方法を協議したい旨の申入れがあった。村長は、議会の協議会にはかり、その意見をきいたが、大勢は小川町との協議に応ずることより村内の意見を統一し、しかる後に会談すべきであるとの意見だった。四月十二日付で小川町に対し、会談の暫時保留の回答を発した。
 黒羽ブロックは、黒羽町長を中心に郡試案による合併の是非を検討していたが、湯津上村を含めた従来の黒羽ブロック合併案を支持する意見が断然多く、本村を除く四町村の意向は、郡案支持の線が明確に打出された。従って、本村の参加の意思表示があれば県試案と異っても議決を行なって知事に申請することができる段階となった。
 四月十七日付で黒羽町長から本村の参加の有無を四月二十二日までに回答してほしい旨の期限付の公文が送られてきた。村内は、その去就と合併先の行方をめぐって連日、部落・大字・団体内部の会合が開かれ、農作業より熱気をもって取り組む村民の有志が多かった。
 役場庁舎の会議室には、県の試案が掲示されたり、県が募集した町村合併に関するポスターや標語の入選作「合併で栄える郷土伸びる自治」「合併は心の和から地の利から」とか、全国最優秀作「村興すこの合併が国興す」「せまい垣のけて明るい村つくり」などがはりめぐらしてあり、町村合併の熱気にあふれていた。
 四月三十日には、町村合併促進法の一部が改正され、各地で合併の障害となったりしていた教育委員、及び農業委員の任期の特例などが設けられ、合併の促進は法の上からも近隣町村からも急がざるを得ない局面を迎えつつあった。
 昭和二十九年四月までには、県下の町村の中で合併申請済、又は合併期日確定の通知が、地方課から送付されてきた。
 同年五月二日には、先の第一次試案の中で合併済、申請済、期日確定の町村を整理し、関係者等から意見を聴取し、作成された町村合併計画が、栃木県町村合併促進審議会長(堤武雄=副知事)から栃木県知事(小平重吉)あて答申され、同時に県計画として確定された。この計画の中で那須郡と塩谷郡の一部を含む合併計画は、次のようなものであった。
町村名人口面積(平方キロ)備考
大田原町一五、八六四一二、一〇○塩原町はこの合併計画にかかわらないで観光地の特殊性に鑑み独立することも考えられる
○野崎村は大字豊田成田及び沢を除く区域とする。
親園村五、三一七二二、五〇
野崎村約三、九六九約一六、七〇
佐久山町五、三四九二三、九〇
金田村一三、五四八五九、二〇
狩野村一〇、二一四二四、三〇
西那須野町九、七八九三七、二〇
箒根村六、四一八八七、五〇
塩原町四、八五四一〇三、〇〇
約七五、三二三約三八六、四〇
川西町六、六三二一八、八〇
黒羽町八、三三二五三、二〇
須賀川村五、四二七七一、六〇
両郷村四、七九七四三、四〇
二五、一八八一八七、〇〇
伊王野村六、七四〇六九、九〇
芦野町四、八〇一四四、六〇
那須村一九、七〇〇二五七、五〇
三一、二四一三七二、〇〇
鍋掛村四、三八四三二、一〇
黒磯町一〇、九五七二七、一〇
東那須野村七、五七三三五、一〇
高林村六、八三八二五一、〇〇
二九、七四八三四五、三〇
小川町八、五八四三八、一〇
湯津上村七、七九九三二、八〇
一六、三八三七〇、九〇
馬頭町二三、〇三四一五一、八〇昭和二十九年七月一日武茂村、馬頭町、大内村及び大山田村が合併するものである。
鳥山町二九、一四〇九七、二〇昭和二十九年三月三十一日向田村境村、鳥山町及び七合村が合併したものである。
南那須村一六、五五〇八〇、六〇昭和二十九年六月一日下江川村及び荒川村が合併するものである。

 この県計画は、昭和二十八年十月一日現在で五市・三七町・一二八村計一七〇市町村を四六市町村に合併するものであった。
 本村の一部が黒羽町へ編入するの備考欄記事は削除され、分村はなくなったが郡試案とは異なっていた。
 郡における郡自体の試案作成は、この時点ですでに決定をみていたので、県の計画発表と同時に公式に決定、五月八日次の郡試案を知事・県議会議長・合併促進審議会長に陳情し、その採用を迫った。
合併町村名人口
那須村、伊王野村、芦野町三一、五五六
黒磯町、鍋掛村、東那須野村、高林村二九、九九七
黒羽町、川西町、両郷村、須賀川村、湯津上村三二、三一〇
大田原市、金田村二八、九一一
親園村、佐久山町、野崎村、上江川村二一、九九三
西那須野町、狩野村、箒根村、塩原町三一、六八〇

 黒羽ブロックでは、五カ町村で町村合併促進連絡協議会規約を各町村議会に上程し、六月一日から一町村委員一〇名として発足する話しあいが決定された。川西町は、五月二十四日議会を招集し、この規約案を上程したが湯津上村の参加が確定的でないという理由で保留となった。他の町村は、このニュースにより議会に上程することを取りやめた。
 本村の責任がますます重くなってきたので、村長は、村内有志七〇名を枠として合併研究会を組織し、その意見を徴することとした。
 五月二十五日佐良土小学校講堂において会合を開いたところ、その意見は東部・南部・西部のそれぞれの地区内の統一さえできない状態であり、村内統一の合併方向は決定できない烈しい対立だった。最終的には「分村しない合併を前提に村並びに議会に一任」の決定をみて散会した。
 議会は、これを受けて五月二十八日、全員協議会を開き、本格的な討論を重ねたが結論は見出せなかった。
 六月九日には小川町長・議長から再度の会談申入れがあり、とりあえず何人かの委員をあげて話しあいたいとの趣旨であった。
 村長と議会は、隣接町村の実情視察を行ない打開策を見出すこととなり、六月四日大田原町と金田村、五日小川町、八日川西町と両郷村、十日黒羽町と須賀川村の日程で視察を行ない、町村長・議員等と会談をした。
 六月十一日には川西町長ほか議員が一〇名ほど来庁し、郡試案により合併に参加するよう強い呼びかけがあった。
 六月十四日、合併研究会に対し、視察調査の結果を報告した。この時点での各町村の概要は次のようなものであった。
○大田原町 県案は、審議の段階に入っていない。金田村と親園村は多分合併することになるだろう。湯津上村については考えていない。

○金田村 研究委員会を作り、大田原町に合併することがよいとして、七名の委員をあげて交渉している。大田原町内には、西那須野町と狩野村とを合併し、市制実施後に吸収合併したい意向もあるときき、やむを得ないときは独立を考えている。巷間の一部に流布されている金田村と湯津上村との合体合併は大賛成である。

○小川町 一対一の対等合併したい。今さら馬頭町への合併はできない。税務署は氏家管内なので湯津上村との合併後は、大田原税務署管内に入りたい。箒川には、浄法寺、蛭田間に水久橋を架けるつもりでいる。

○両郷村 伊王野村と芦野町との合併の話もあったが、今は黒羽ブロック合併に決定している。

○川西町 黒羽ブロック合併である。川西町・湯津上村と金田村の一部で合併の案も巷間に噂されているが、金田村が入ることは賛成できないとの強い意見もある。湯津上村の西部への道路は、合併後至急整備する必要がある。

○須賀川村 十八部落のうち十五部落は、黒羽ブロック合併に賛成であり、他の部落も了解が得られる見通しである。

 この報告を行ない、全村合併の努力をする旨を約して会を閉じた。
 六月十五日には、黒羽ブロックの町村長・議長が黒羽町役場において話しあいを行なうことになり、特に本村からは議員五名、農業委員会長、教育委員会委員長及び佐良土農業協同組合長が参加し、郡試案合併について最終的ともいえる話しあいが行なわれた。
 七月二十八日、村民の声を表わす次の要請書が村長・議長あてに提出され、本村の町村合併に関する公の文書村内第一号となった。
     要請書
 町村合併促進法の施行を見てより一〇カ月余、又同法に則り、本村においても合併研究委員会が生まれてより半歳に及び、過般五月二十五日の第四回研究委員会の審議により、合体合併を前提として村並びに議会へ一任してより既に七〇日余、今尚決定を見ざるは村民として誠に遺憾に堪えません。
 然しながら両当局に於ても本村民の将来の幸福と権利伸張を計る為、最善なる研究と調査に努められて居ることと存じますが、その反面、両当局として極めて困難なる事態に直面して居り、その選択に当り苦境に立って居る事を諒察するものであります。
 それは所謂、県試案と郡試案とに依る村民輿論の対立にその因をなして居ることは、何人も否定し得ない現実の事情であると確信いたします。
 茲に我々村民は深く省ると共に、指導者たるものは伝統を誇る平和大農村湯津上村の大同団結を計り、合体合併を希求する村民の真剣なる輿論に対し、真に応える態勢を整え、然して強化することこそ焦眉の急務なりと信じます。
 故に、我々部落代表有志は、再三相集まり協議の結果、村の将来の発展と権威を発揚する為には、現実の対立抗争に日を送ることを深く憂え、村を思う愛郷の至誠より左の決議をなして村当局並びに議会当局へ要請するものであります。
 深く思いを致されて何卒憂村の至誠を御詮議あらんことを要請するものであります。
     決議
 町村合併に関し、本村はあくまで合体合併の村民の総意の基本態勢を強化すると倶に、村内対立抗争の源たる県並びに郡試案にこだわらず、本村の体型を平常にもどし、本村民の自主的発意による合併町村を選定すべきものと信ず。
 仍って村並びに議会当局へ要請するものなり。
右決議する。
  昭和二十九年七月二十八日
            東部代表    永山健寿
            新宿 〃    伊藤要
            片府田〃    鈴木保
            〃  〃    吉成周作
            東部 〃    高瀬鉄三
            〃  〃    永山秀樹
            〃  〃    江崎寅多
            〃  〃    諏合義弘
            〃  〃    清水新太郎
            新宿 〃    牛井淵恒三郎
            〃  〃    蛭田明
            蛭田 〃    多部田兼造
            〃  〃    深沢兼造
            〃  〃    墨谷渡
 議会は、八月六日全員協議会を開き協議したが、依然としてどの町村との合併が最善かの結論は出なかった。村長は、早期解決の糸口をつかむべく、八月十七日中学校に元老代表として金森耕太(当時の監査委員・佐良土)、大野三木(当時の教育委員会委員長・蛭田)、五味淵金蔵(当時の教育委員・湯津上)を招き、村長・助役・収入役・議長並びに副議長と終日意見を求め懇談した。
 八月二十日には小川町議員が全員で来庁し、県案による合併の実現を切望して帰った。そして九月に入り、町村合併促進法の施行後一カ年を迎えることになり、村長・議員もその終結を急ぎ、九月八日全員協議会を開き、その開会に先立ち三元老の話を改めてきき、協議会に移った。協議会では、県案により合体合併すべきであるの意見あり、黒羽ブロックの合体合併をとの主張あり、更に大田原への全村合併すべしの展開ありで、結論は見出せなかった。
 村内でも東部方面にも黒羽町への合併派と、大田原への合併派がその流れを二分し、南部には県案支持と大田原合併支持が分かれはじめ、西部には県案支持と大田原支持に二分される形となってきた。
 九月二十日には小川町長・議長が訪れ、村長・助役・議長及び副議長が応接したが、特に変った結論は得られなかった。
 村内は、隣組・部落・大字・青年層・婦人層等が地域的に又は組織的に動きが活発となり、問題はあるにしても、どの線かを確定しなければならない状況となってきた。法の施行後一カ年を経たので、村長・議長の連名で知事あて次のように報告している。
湯発第二二八三号
 昭和二十九年九月三十日
            湯津上村長 菊地啓重
            湯津上村議会議長 花塚善蔵
 栃木県知事 殿
   町村合併に関する現況報告について
 町村合併促進については、昭和二十九年九月十三日地方第六三三号栃木県総務部長名にて通知がありましたが、本村は、町村合併促進法の施行以来委員会を作り再三再四の協議を遂げ、その他議会においても村議会及び協議会を重ねること一〇回余、その間隣接町村の調査及び部落の懇談会等を開催し、民意に反しない合併促進方に邁進してきましたが、遺憾ながら意見の一致を見ず、現在の状態にては地理的に三分区に分離されるような状態であります。
 一方、村内の各字代表よりは別紙の通りの要請書の提出もあり、この件については過般の村議会において満場一致これを採択し、何れかへ意見一致の線を見出すよう努力しておりますが、まだまとまらない状態であります。
 仍って、県案による合併もまた困難な状態であります。

 法施行後一年で南那須郡は、烏山町が昭和二十九年三月三十一日に、南那須村が同年六月一日に、馬頭町が同年七月一日に新町として誕生している。村内の動きの大勢は、県計画並びに郡試案にこだわらずの要請書の大義名分からか、大田原町、金田村及び親園村が同年十二月一日を期し、合体合併が実現し市制を施行するとの情報からか、急に大田原市への合併を望むようになった。
 十月二十八日に臨時議会が招集され、「合併試案について」の議題を提出し、烈しい討論を交したが村民の意向の大勢を受けて採択の結果は、一四名賛成、五名反対で「十二月一日市制施行する大田原市へ合併する試案」が議決された。
 これにより村内は賛否両論が入り乱れ、混乱の一歩を踏み出した。同年十一月三日には那須町(那須村・伊王野村・芦野町の合体合併)が発足、三十年一月一日を期して黒磯町(黒磯町・東那須野村・高林村・鍋掛村の合体合併、昭和四十五年十一月一日市制施行)が誕生、同年二月十一日には西那須野町(西那須野町・狩野村の合体合併)が発足した。
 黒羽ブロックもこれ以上本村の参加を待てないとして、同じく二月十一日川西町・黒羽町・両郷村及び須賀川村の合体合併を行ない、黒羽町として発足した。
 この大田原合併試案は、大田原市発足と同時に申入れ、大田原市の初代市長益子万吉は、市議会から市長一任のとりつけができたとの回答が四月三日に至って送付された。
 そして村長・議員の任期満了により、村長には増山稲麻が無投票で選ばれた。四月三十日には新村長・議員が合併解決のスローガンを掲げて任期の第一歩を踏み出した。事務引継、議会人事を終了し、合併解決について県・県議・隣接市町などに就任挨拶を兼ねて陳情を行なった。
 五月二十四日、六月二十三日と議会協議会を開き、町村合併に関する特別委員会を組織し努力することとなり、八月五日一一名の特別委員が選出された。
 村長と特別委員は、全村大田原市合併に強い反対を表明し、黒羽町への合併を望む狭原地区の住民の意見をきくこととし、八月十一日東部地区館(湯津上小学校敷地内)に狭原自治会長(清水新太郎)ほか一〇名程度と地元議員の出席を求めて行なった。
 八月十九日は、佐良土小学校講堂(村の公民館本館を兼ねていた)に、大字佐良土の代表を集め会談したが、いずれも大田原市合体合併の試案に了解を取りつけることはできなかった。
 特別委員会は、更に九月九日、九月二十八日と引き続き会合をもって善後策を考えたが、結論として「住民代表である議員が大局的見地から一本化して村民に説得する」ことに決定した。
 十月四日の議員全員協議会に報告された。そこでの話題の焦点は、議員が一本化し、白紙に戻って村民に説得するに際し、村が昭和二十九年十月二十八日に議決した「大田原市合併試案」を取り消すことの是非論であった。議員の意見は、この試案も村民の要望を背景として議決されたものであり、ここで議会が形式上議決を取り消しても事実上の解決はむづかしいので、このまま続行すべきだとの意見が多かった。中には、分村か独立かを論ずる議員もあった。村長は、全部を白紙に戻して研究委員会の意見により決定したいと主張した。協議の結果、議決を白紙に戻し、研究委員会に諮ることに決定した。議決取り消しの議会は十月九日午前に行ない、引き続き研究委員会を開くこととし、改めて次の者を研究委員会の委員として委嘱した。
 斎藤郁・蜂巣世称一・花塚善蔵・深沢国盛・高久兼・岡重雄・佐藤清 江崎博夫・長谷川重・関谷喜義・荒川金作・佐藤三郎・蜂巣丈平・尾崎元一・郡司長一郎・蛭田正一郎・尾畑孫市・永山健寿・鈴木信一・飯塚芳蔵・佐藤寅・江崎信弥・吉成市郎・谷国夫・永山寅政・飯塚博・沼野万之助・阿久津観蔵・山口長吉・鈴木保・館林勇・五月女由夫・中沢照雄・大金鶴寿・花塚始・蛭田明・増山マス・尾崎沢野・磯ヤイ・諏合義弘・岸田豊・吉成孝一・郡司弘之助・高瀬鉄三・菊地孝一・菊地武雄・磯一寿・阿久津茂一郎・吉成喜久一・永山秀樹・金森正寿・遠藤靖之助 坂主行雄・谷口三四郎・大野三木・花塚直茂・清水新太郎・江崎寅多・永山喜代治・小森勇蔵・小林政次・高江良作・多部田兼造・牛井淵恒三郎・吉成周作・山村与八郎・斎藤薫・金森耕太・藤田文太・五味淵金蔵
 臨時議会は十月九日に招集され、議題は二十九年十月二十八日に議決された「大田原市への合併試案取り消し」であった。
 本会議に先立ち協議会を開いたが意見の調整がつかず、白紙、一本化の議員の申し合せが実現されないまま、議会は地方自治法施行以来の初の流会となった。当日の合併研究委員会には、県の地方課長、同次長及び行政係長が出席し、村の考え方をきき、県の見解をきく日程だったので、村長及び議員は流会の議場から会場に直行することとなった。
 委員の意見は、大田原市合併論者・県案賛成論者・黒羽町合併論者・そして分村論者ありで到底一本の線にまとまる気配はなかった。元老の人々は「今まで六〇数回の各種会合があっても、分村論者が極めて少ないことは、分村しない合併が村民の輿論と思われる。従前どおり一本化することに努力しよう」と訴えた。委員の多くはこれに同調したので村長は、あくまで合体合併を目標に進む旨を宣言した。これで本村の合併問題は、再び振出しに戻った。
 十月二十六日、議員全員協議会を開き、今後の村内の会合、隣接市町との話しあい、県及び県議会への陳情方法や日程を打合せ、あくまで村を割らないことを確認した。
 十二月八日には、議員全員(二二名)は、次のような誓約書を作成し、あくまで合体合併で進行ことを更に確認した。
     誓約書
十月四日の全員協議会を基盤とし、一切を白紙に戻すことを全員了承し、あくまで一本化を図り、合体合併に邁進することを誓約する。

 それから翌三十一年五月までは、住民側の部落別の話しあいや、それぞれの合併方向を同じくする同志別の会合などが頻繁に行なわれ、村長も各方面への陳情・懇談が続けられ、議会も開会の都度、熱心に討論を行なってきた。しかし、半ば感情の対立が表面だって出はじめ、統一された合併方向を見出すことは困難な様相を呈してきた。
 六月二日の議会協議会で地方課長を招き、話しあいを行なうことに決定し、時期は農繁期を終えたころに行なうこととなった。
 村長は、八月六日議員全員協議会の席で、いよいよ時限法三年の町村合併促進法の失効が目前に迫ったので、早急に合併問題に終止符を打ちたい。今の村内の輿論として県案による合併は無理と推測される。国や県の指導や財政援助は新市町村建設が優先されている現状からみて、未合併である本村の不利益は事実である。今後は、議会の過半数の議決があれば、反対の主張をした議員も村民も、潔くこれに従うの心構えが欲しいと訴えた。大半の議員から村長の発言に賛同する声はあったが、全議員の同調はなかった。
 九月十三日には、品川・新宿・片府田・蛭田及び中の原の代表者二六名から大田原市合併促進を内容とする請願書が提出された。
 村長は、九月二十三日の定例議会に合併の知事申請の形でなく、次の議案形式により県案による合体合併を行なう旨の提案を行なった。
 議案第十三号
  県の計画に基づく町村合併について
 栃木県は、町村合併促進法(昭和二十八年法律第二百五十八号)第四条に規定するところに従い、栃木県町村合併促進審議会を組織し、町村合併に関する計画を作成、現在までこの計画に基づく町村合併の促進を勧奨してきたが、昭和三十一年九月十三日知事名をもって本村に対し、町村合併促進法の失効が迫った今日、強力に未合併町村の合併を促進し、県の計画の完了を期す所存である旨を明らかにし、かつ、正規の議会において合併の意見を決定するよう重ねて勧奨されたので、本村としても一応県の計画に基づく町村合併を行いたい。
  昭和三十一年九月二十三日提出
              湯津上村長  増山稲麻

 採決の結果、反対一四名、賛成五名で否決され、正規な意思決定として県案による合併は、村民の多数の好まないこととなった。なお、同日の議会には東部方面から黒羽合併促進委員会会長(永山秀樹)ほか部落代表四七名の署名を添えた、全村黒羽町合併促進を趣旨とした請願書が提出された。黒羽町合併を望む理由として、本村が郡北に位し、寒冷地帯の農業形態にあること。小川町とは行政区が異なること、文化・経済 産業・交通面において小川町とは祖先から何のつながりのないことなどがあげられていた。
 続いて九月二十六日には、大字蛭畑字民大会(代表吉成喜久一)から大田原市への合体合併を希望する内容の請願書が提出された。
 九月三十日、ついに町村合併促進法の失効となり、十月一日新市町村建設促進法(昭和三十一年法律第一六四号)が施行された。この法律は、その名の示すとおり、町村合併促進法により合併した新市町村が、新市町村建設計画の実施に当るときの財政援助の方法、特例などを主としたものであり、その効力は一部について五年、一部について十年の時限法である。
 特に、その第五章に「町村合併に伴う争論の処理及び未合併町村の町村合併の促進」が設けられた。争論については、五名以内の町村合併調整委員がその処理に当る旨の規定がある。未合併町村の合併については、知事が新市町村建設促進審議会(二〇名以内で知事が任命)の意見をきき、内閣総理大臣に協議して、あらたに当該市町村に係る町村合併に関する計画を定め、昭和三十二年三月三十一日までの間に勧告しなければならないと規定され、知事の合併勧告を法制化してある。その後の事情の変化により、この勧告の変更を必要とするときは、前述の手続きを経て昭和三十四年三月三十一日までに変更の勧告をすることができるとあって、住民の声を無視する態度は法律としてはとっていないことがわかる。しかし、法律は更に町村合併促進のため、知事の勧告を受けた市町村が当該勧告を受けた日から四か月以内に町村合併を行なわない場合において、知事の申請があったときには、内閣総理大臣は中央審議会(委員二五名以内、大臣任命)の意見をきいて、関係市町村に対して町村合併の勧告ができる旨の規定が設けられてある。
 村長は、出県して村内の現況を報告し、村を割らない大田原市への合併計画に変更してほしいと陳情したが、県側は、村内の輿論が統一されていないので、たとえ変更しても反対のあることは必然として計画変更を拒んだ。雑談の中で、人間の心理は意外と事の逆を好むものだから、大田原市へ、黒羽町へ、小川町へと合併を希望する村民がいることから一度分村してみる計画をたてたらどうだろう。どこか一本という線が出るのではないかといった話題も出たほどで、村民の陳情合戦は県側の判断を迷わせていたと推測され、村内の事情の複雑さをそのまま表わしていた。
 村長も法の理論と住民側のそれぞれの地区の輿論の妥当性に対し、肯定と否定が心の中で交錯し、断を下して一線を引きがたく、東奔西走の努力の結果も空しく、厳しく批判され、叱責され、無能呼ばわりされ、悶々の日が続き、安らぎのときがなかった。
 十月二十二日には議員一三名から、地方自治法第一〇一条の規定による臨時議会の招集請求が提出され、村の実情から三分村の議案を提出するとの要求があった。これは、十月二十日の各新聞に、湯津上村に対し県は調整委員に実情を調査させ、村民の意向を容れて三分村の計画にするらしいとの報道により、にわかに分村やむなしの動きが各地区に盛りあがったことによる。報道のとおり、十一月十二日調整委員三名が来村し、県案賛成派、黒羽町合併派、大田原市合併派の代表二〇名ずつを選び意見を聴取した。
 村長は、先の臨時議会請求もあり、調整委員の実情調査の際の各派代表の烈しい熱弁と決意表明から推測し、三分村やむなしと判断し、十一月二十三日を臨時議会招集日として告示した。次の議員提出の議案が上程された。
 議案第一号
   那須郡湯津上村の廃止編入について
 那須郡湯津上村を廃し、その区域を分けて大字片府田、大字新宿大字蛭田及び大字蛭畑を大田原市に、大字狭原、大字小船渡及び大字湯津上を黒羽町に、大字佐良土を小川町に編入し、昭和三十二年二月一日から施行するものとし、これが処分方を栃木県知事に申請するものとする。
 なお、廃止編入に伴う財産処分については、本村の所有する全財産(一切の権利義務とも)を大田原市、黒羽町及び小川町に帰属させる方針の下に関係市町と協議するものとする。
  昭和三十一年十一月二十三日提出
            湯津上村議会議員  鈴木信一
             同        江崎博夫

 採決の結果、反対五名、賛成一五名で可決された。村長は、十一月二十五日、大田原市長・黒羽町長及び小川町長に対し、次の公文を持って受入れを要請した。
  湯発第四〇九〇号
   昭和三十一年十一月二十五日
              湯津上村長 増山稲麻
        殿
   村の境界変更について
 当村の合併問題は、町村合併促進法の失効前に実現せず今日に至りましたが、去る十一月十二日栃木県新市町村建設促進審議会委員中、調整委員に任命された委員三名が実情調査に来村の折、分村を辞さない旨の住民代表の声もあり、越えて十一月二十日地方自治法第一〇一条の規定による議会招集の請求があり、住民、議会の急ぎ処理を望む声が多くありましたので、十一月二十三日に臨時議会の招集を致しました。同日、別紙写の如き原案が提出され、種々審議の結果十五対五の多数決を以って議決されました。つきましては、村民の輿論が伝統ある歴史と挙村一致の団結と愛郷の精神をなげうっても、夫々希望する市町へ編入を希望いたしますので、貴職の理解ある処理により、昭和三十二年二月一日から施行できますよう御配慮を戴き度く御依頼申上げます。

 十一月三十日には、県は、村が三分村議決をしたこと、関係市町への申入れを行なったことが、実情調査の結果と符合することから「三分村計画」の確定を行なった。
 しかし、事の解決には至らず、佐良土地区内には「分村反対期成同盟会」が結成され、東部地区にも「婦人同盟」が「合体合併期成同盟会」に結成替えし、全村大田原市合併を叫んだ。加えて、有権者の七〇%近くの署名を集め、分村反対・議決取り消しの陳情・請願が提出されることとなり、再び村内は乱世の事態が訪れ、三分村執行はストップとなった。村民の陳情は、大田原市・黒羽町・小川町・県・県議・審議員にまで連日、三分村賛成・反対の両派が烈しく行ない、行政の機能も停滞し、不穏な流れができ、ポスター・チラシの新聞折込みが連日のごとく繰返された。しかし、県・黒羽町及び小川町は、この陳情に動かされなかった。大田原市長からは、毎日の陳情でその何れが正しいのか判断に苦しんでいる、分村について村長は執行する意志があるかと質ねられた。村長は、住民が納得するまで執行はできないと答弁、事実上この議決は棚あげの状況となった。
 黒羽町は十二月二十一日、小川町は十二月二十五日にそれぞれ分村受入れの議決を行なって、大田原市の議決があれば、村民の反対はあるにせよ合併は完了する局面となった。
 県は、現況では更に一押しする意味もあって、十二月二十七日知事の三分村合併勧告を発した。全文は次のとおりである。
地第九一九号
   勧告書
         那須郡 湯津上村
         那須郡 小川町
             大田原市
         那須郡 黒羽町
 新市町村建設促進法第二十八条第一項の規定により、栃木県新市町村建設促進審議会の意見をきき、内閣総理大臣に協議して、別紙のように貴市町村に係る町村合併に関する計画を定めたのでこれに基づき町村合併を行うよう同法同条同項の規定に基づき勧告する。
 
  昭和三十一年十二月二十七日
            栃木県知事 小川喜一
 (別紙)
   町村合併に関する計画

合併関係市町村人口(人)面積(平方粁)摘要
湯津上村約一、九一二約六、八〇湯津上村は同村大字佐良土の区域とする。
小川町八、七四〇三九、二〇
約一〇、六五二約四六、〇〇
湯津上村約三、五三八約一二、〇〇湯津上村は、同村大字蛭田、蛭畑片府田及び新宿の区域とする。
大田原市四三、〇三八一三六、四〇
約四六、五六六約一四八、四〇
湯津上村約二、三六四約一四、〇〇湯津上村は同村大字狭原、小船渡及び湯津上の区域とする。
黒羽町二三、九四一一八〇、七〇
約二六、三〇五約一九四、七〇

 年は改まって昭和三十二年一月二十四日、村長は陳情など激しい日程と重なる心労のため、病(狭心症)に倒れ出勤不可能となり、助役は欠員で重要な決裁は病床で行なうという村政執行は、極度の危機に陥った。
 二月二十五日地方課長、同行政係長が来村し、三分村合併の推進について三地区で説明会を開くこととなり、蛭田小学校を終え、佐良土小学校での中途、両会場に詰めかけた熱心な住民から会場ごとに行なう説明が違うと激昂したため、場内は騒然として続行不能となり、中止し、湯津上小学校での説明会は取りやめた。
 二月末日になっても村長の病状は出勤に耐えがたく、病床における決裁も思わしくない状態となり、県の行政指導もあり、助役欠員なので、地方自治法第一五二条の規定による村長職務代理者(行政課長永町金吾)により執行することとなった。昭和三十二年度の予算は暫定予算を編成することとし、四月から六月分までとした。
 当然に、二月一日から施行の三分村合併計画は流産となっていた。
 村内の動きは執行体制の危機に追い討ちをかけるかのように一段と熾烈さを加え、「議決取り消し」「大田原市へ全村合併」の声が高まり、三月定例議会の末日(三月二十七日)議員提出による次の三議案が上程され審議された。県案を支持していた五名の議員は、法を無視した行為に遺憾の意を表して退場。残った議員が満場一致で議決した。
追加議案第一号
   議決の取消について
 昭和三十一年十一月二十三日の臨時議会において議決された「那須郡湯津上村の廃止編入について」の議決は、これを取消すものとする。
 昭和三十二年三月二十七日提出
        湯津上村議会議員 郡司長一郎
                 (外六名) (氏名略)
    賛成者 湯津上村議会議員 蜂巣丈平
                 (外五名) (氏名略)
理由 昭和三十一年十一月二十三日提出された「那須郡湯津上村の廃止編入について」が議決されるや、分村反対の声は日増しに多くなり、村を割ることなく合併したいとの輿論が圧倒的に多くなった現在、我々は住民の輿論を尊重すべき町村合併の問題なるが故に、体面にこだわらず、敢てこの議決を取消し、以って村内輿論に忠実に応えようとするものである。

追加議案第二号
   町村合併に関する知事勧告を拒否することについて
 昭和三十一年十二月二十七日付栃木県知事名による町村合併に関する勧告は、本村住民の希求する勧告でないので、これを拒否するものとする。
       (提案者、賛成者前号議案と同じ)
追加議案第三号
   那須郡湯津上村の廃止編入について
 那須郡湯津上村を廃止し、その区域を大田原市に編入し、これが合併処分方を栃木県知事に申請するものとする。
       (提案者、賛成者前号議案と同じ)
 理由 本村と大田原市とは、人情風俗を同じくし、特に旧親園、金田両村との農業関係においては密接不離の関係にあり、その他地理的、経済的にみて合併することにより、関係住民の福祉はとみに増進され、町村合併の趣旨目的に合致し、地方自治の本旨の充分な実現は速かであり確実性に富んでいる。

  仍って、本案を提案するものである。

 三月二十八日、大田原市に対し、次のように公文をもって申し入れを行なった。
 湯発第七二三号
 昭和三十二年三月二十八日
       湯津上村長職務代理者 事務吏員 永町金吾
 大田原市長益子万吉殿
   町村合併について
 本村の町村合併については、昭和三十一年十一月二十三日地方自治法第一〇一条の規定により招集された臨時議会に於て三分村が議決され、且つ、村長に於ても同月二十五日文書をもって昭和三十二年二月一日から施行できるよう貴職に御依頼申しあげてありましたが、大田原市の受入議決のすまないまま今日に及びました。
 去る三月二十七日議員提出により、別紙の如き追加議案三件が賛成一二名、反対二名(退場五名)をもって議決されました。
 従来までの経過については、すでに貴職に於て御承知のとおり、村を割ることなくという点のみが一致し、夫々の区域が各々希望する方向へ一体性を持つことを主張してきた結果が、先頃の三分村の議決と思考されますが、輿論が一体を強く要望しているという推定は、今日の情勢下にあっては、日本国憲法の精神に則った公職選挙法の示すところにより、村民が自由と正しい選挙権の行使によって選出された議員の多数意見を基準として推定する外なしと考えられます。三年有余に亘って審議され、種々の変遷の後分村が議決され、その後更に一丸にまとまった姿が、多数の村民の希求する真の姿であると推定をいたす外ありません。何れの町村合併に於ても、全村民が満足する結果は到底望み得ぬ問題でありますので、村民自体が強く要望する線と議会の多数意見が一致した今日の姿が、町村合併の趣旨、目的に副い、地方自治の本旨の実現を速かならしめるものであると断定いたします。
 仍って、本職は、三分村を取り消し、大田原市へ全村編入の合併をするとのこの議決を村の態度、方針として今後進む覚悟であります。(尚、従来まで受入の議決をなされた貴職はじめ関係者各位の御協力と御芳情に対し、深甚な謝意を表するものであります。)
      〔( )内は、黒羽町及び小川町に書き加えた。〕

黒羽町長(川嶋欣之助)、小川町長(白相一策)あてにも同文を送付したが、次の公文により返戻された。
 小川発第八二五号
  昭和三十二年三月三十日
           小川町長  白相一策
湯津上村長職務代理者
  事務吏員  永町金吾殿
 町村合併について昭和三十一年十一月二十三日貴村長並びに総務課長同伴の上、分村合併の要請に基づきこれを執行したのであって湯発第七二三号、昭和三十二年三月二十八日付の文書は受理執行なしがたいからこれを返戻する。
黒羽第七九〇号
 昭和三十二年三月三十日
           黒羽町長  川嶋欣之助
 湯津上村長職務代理者
 事務吏員 永町金吾殿
   町村合併について
 昭和三十二年三月二十八日付湯発第七二三号による標記文書については、去る昭和三十一年十一月二十五日湯発第四〇九号による「村の境界変更について」の通牒により、本町においては湯津上村の本旨に則り、同年十二月二十一日町議会において議決を了し、尚その後県の勧告においても本町の議決と同趣旨にて、これを取消すことは、本職の意に非ざるところにより返戻する。
 三月二十九日出県の上、県案の変更を陳情したが、三分村合併について小川町は昭和三十一年十二月二十五日、黒羽町は同年十二月二十一日に受入れ議決を行なっているので、変更は出来ない旨を口頭でいい渡された。四月二日には次の公文が届けられた。
  地第二一五号
  昭和三十二年四月二日
             栃木県知事 小川喜一
  那須郡湯津上村長殿
  町村合併の促進について
 三月二十八日付湯発第七二三号をもって、従来の町村合併計画を変更し、湯津上村は、大田原市へ編入合併すべきものとしてその実現を要請してきたが、県は、左記方針に基いて既定の町村合併に関する計画により、町村合併の促進を図る所存であるから了承願いたく、右通知する。
      記
 湯津上村議会は、前議決を取消し大田原市との合併の議決をしたが県は、湯津上村を大田原市、黒羽町及び小川町に三分する合併計画を変更する意思はなく、既定の方針で、今後とも促進を図る所存である。
 湯津上村が、勧告に基く合併を拒否し続けているときは、法定期限満了と同時に内閣総理大臣の勧告を申請する予定である。
 勿論、大田原市と湯津上村の合併の申請があっても、これを県議会に提案することはできない。内閣総理大臣の勧告をも拒否するものであれば、湯津上村は、未合併町村として残す。この場合には、新市町村建設促進法第二十九条第二項の規定が適用される。(国の財政上の援助措置が行なわれないことがある。)

 四月十五日には、大田原市議会で全村受入れの議決を行なった。定数三〇、賛成一八、反対八であった。大田原市のこの議決の前日ごろ、「愛市市民同盟連合会」の発行したチラシにより、当時の大田原市の本村合併に反対の市民の言い分を知ることができる。
  市政を憂うる 大田原市民 各位に告ぐ!
 四月十五日臨時大田原市議会が招集され、湯津上村合併問題に関し一挙に全村受入れの議決を強行せんと策して居るとのことですが、此の問題は、既に湯津上村が大田原・黒羽・小川に三分割合併の議決を行ない、これに基いて県議会の総務常任委員会も、新市町村合併建設促進審議会もこれを尊重し、最も民主的な解決なりとして県試案の小川町への全村合併を翻し、県は、自治庁と合議の上知事勧告が発せられ小川、黒羽は直ちに夫々受入の議決を行ったが、独り大田原市のみが何故か此の勧告を無視して、湯津上村長が執行しないから議決ができないと言って居ながら、今回県が如何なることがあっても勧告の線は絶対に変更しないことを、知事の記者会見に於ても又、四月二日付で関係市町村に発せられた警告書によっても明白にされているにも拘らず、市当局は、敢て議決に持込まんとする態度は、全くその意図するところ何れにあるやを疑うものである。
 今日までの経緯並びに県の方針からみれば、続いて内閣総理大臣の勧告が発せられ、延いては湯津上村が未合併町村として、国の財政的援助も受けられないような苦境に立つことは必至の状勢であります。
 斯る場合が招来したその責任は、一体誰が負うことになりますか。
 既に県及び黒羽・小川両町も斯る混乱に導いた責任は、無謀にも法を無視した大田原市の煽動によるものであるとの強い批判を受けているのであります。今日まで大田原市当局を信じて盲従して来た湯津上村一丸合併派もその実現が不可能となれば、これ亦強い逆恨みとなり、大田原市が四面そ歌の事態に追込まれることは火を見るより明かであります。
 聞くところによれば、議員中には、此の無謀なる市当局に対し、無批判同調せんとするものあるやに伝えられているが、無知無定見も甚だしと言わねばなりません。大田原市が無謀を敢てして独り繁栄するものではありません。吾々市民が冷静に此の際四囲の事情を見極めなければならぬことは、石林の学童問題に端を発し、西那須野は極度に憤慨し、不買同盟を敢行すると新聞紙は伝え、更に小川、黒羽及び湯津上の三分割派も大田原市が暴挙を敢てするならば、経済断交も辞さないと伝えられて居ります。斯る重大な事態を予測するとき、議員諸公は、市民の福祉を阻害し、天下に無定見無責任を暴露し、悔を百年の後にのこす愚に出ないよう強く反省を促したいと思います。
 切角市制施行後発展の途上に乗りつつある現状を、此の暴挙に依って全く阻止される憂いあると見て、吾々市民は拱手傍観出来ましょうか。
 敢然起って此の悪夢を覚醒させようではありませんか。
             愛市市民同盟連合会

 これらの動きの中で大田原市が受入れの議決を行なったので、本村も四月二十日次のような財産処分に関する議決を行なうこととなった。
議案第二号
  本村と大田原市との合併に伴う財産処分について
 本村を廃し、その区域を大田原市に編入した場合、これに伴う財産処分については、左の方針に基き大田原市と協議の上決定するものとする。
  昭和三十二年四月二十日
        湯津上村長職務代理者 事務吏員 永町金吾
一 本村の全財産(一切の権利義務共)は、合併施行の日から大田原市に帰属せしめる。

 なお、同日湯津上村三分村合併推進委員会代表清水新太郎・小室徳寿から町村合併は、法治国家の原点に立って自治庁・県当局と打合せを行ないつつ慎重に行なうべきであり、従来の経緯から推して本村の合併は三分村こそ至善なるものであるから、再び合併案を変更して合併問題の解決をはかるよう求めた請願書が審議にかけられた。烈しい討論の末、不採択に賛成一二名、採択に賛成七名(出席議員二〇名)で不採択と決定された。
 五月六日には、村長職務代理者名で参議院議長あて陳情書を提出(六月十八日採択)、五月八日には県議会議長(川俣憲治)あて陳情書を提出(九月二十七日の県議会で諸般の事情から勘案して、県案どおり合併推進するのが最も適当であるとの理由で不採択)、更に、新市町村建設促進中央審議会長(湯沢三千男=元内務大臣)へ陳情書を提出した。
 また、大田原市長(益子万吉)と村長職務代理者との連名で陳情書を作成し、両者同行で面接陳情を行ったり、郵送陳情を行なった。
 五月十六日付で大田原市・湯津上村合併対策委員が一三名(議員から)委嘱され、大田原市・県及び国等への運動が展開された。
 七月から村長が病気回復により直接村政を執行することができることとなり、七月九日大田原市役所において大田原市長・同議員代表と村長対策委員との合同会議を開き、情報交換・運動方針・日程等の打合せを行ない、本格的な市村共同の運動が展開されることとなった。
 七月十八日には、昭和三十一年七月四日から空席だった助役に、江崎博夫が就任し、合併実現に向って一層の努力をすることとなった。
 その当時の栃木県のチラシの一枚を掲げる。
    湯津上村の合併について
      関係住民の皆さんに告ぐ!
 皆さん、湯津上村が大田原市・黒羽町・小川町に三分して合併する県の合併計画は、法律に基き、内閣総理大臣と相談して定められたものですから、最早や変更されることはありません。国も県もこの計画で、合併を強力にすすめる決意をもっています。
 内閣総理大臣の勧告が出されても、なお合併が行なわれないときは、湯津上村は勿論、大田原市やその他の関係町村は、未合併市町村として法律に基いて、政府の財政的な援助を打ち切られ、はかり知れない不利益を蒙ることもあります。もとより内閣総理大臣の勧告が出ない今日でも未合併町村であることには変りありません。
 今からでも遅くはありません。よくよく考えて下さい。湯津上村は、地勢・交通、その他の事情からして三分村することが、もっとも幸福な行き方だと思います。それは、湯津上村の皆さんが、おっしゃった言葉です。村会もそのように議決をしました。村長さんも大田原市や黒羽町・小川町にそのことをたのみに行ったこともあるのです。それなのにどうして合併ができないのでしょうか。
 国や県は、腹が決っています。湯津上村の皆さんの決断を待っているのです。
 大田原市の皆さん、湯津上村の西部の方々を温い気持で迎え入れて下さい。黒羽町や小川町では、すでにお迎えの準備は完了しています。県は住民投票によってこの問題を解決しようとは毛頭考えておりません。湯津上村の皆さん、今となっては、あなた方の希望を達するためには、村長さんや村会議員さんにお話して、村会で三分村の議決をして戴く外に方法はありません。
                   栃木県

 これに反論した大田原市と湯津上村の公費を使用したチラシが出されたり、一般の湯津上村三分村合併促進委員会・湯津上村合体合併期成同盟会・湯津上村大田原市合併期成同盟会・湯津上村分村反対期成同盟会などの組織が、それぞれ青壮年部婦人部などの下部組織を作って、陳情合戦・チラシの配布・会合を連日のように繰り返した。お互いが感情的になり、今日において回想すれば冷静さを欠き、両派とも「頭にきた」状態といえる。
 七月三十日午後一時、知事は、村長・議長・合併対策委員(一三名)と知事室において会談し、局面の打開を呼びかけたが結論は出なかった。八月六日助役、議長及び行政課長〔当時の役場は行政課(課長永町金吾)、産業課(課長関谷庚)〕と自治庁に出向き、行政局長(藤井貞夫)に陳情にあわせ近況を報告し、内閣総理大臣の勧告を出す場合には、実地調査を行なってほしい旨を申入れた。
 同月十四日、大田原市へ合併を希望する者の三つの団体は組織を統合し、湯津上村大田原市合併対策委員会とし、委員長に鈴木恒三郎(片府田)を推した。役員四二五名(片府田六〇、新宿二四、品川一六、蛭田四八、蛭畑四七、佐良土九四、中の原三四、湯津上一〇二)の届出が提出され、村の合併方針の貫徹に向って文字どおり官民一体の体制を整えた。大田原市にあっては、愛市同盟会(会長佐藤栄次郎)が別に組織され、市政の正常化要望書が提出されるなど合併に関する紛争は、大田原市も相当高まっていたようである。
 八月二十三日自治庁行政局自治振興課(町村合併担当課)から課長補佐・係長が来村実地調査に入った。村長の説明をきき、県地方課の案内で村内主要道路を自動車で巡視した。
 議会も二派、住民も二派に完全に分かれ、理論より感情が先行する場面もしばしばみられたので、当然に行政執行の面にも影響し、職員も村内在住者が大半のため、公務員であるゆえに中道を歩もうとしても、部落・隣組・親戚等の関係で本人の考え方より周囲の激流に巻き込まれて困っていた。税金の督促も地方税法や村税条例の示すところによって行なっても、村の合併方針に反対の納税者の中には、三分村の者だけ督促するのか、延滞金を余計にとるのかなどつめ寄られたこともある。
 児童、生徒を同盟休校と称する犠牲に一日もしなかったことは、この種の紛争としては特筆に値することだし、良識ある人々の多かったことと思われる。納税についても、一年だけ不納同盟に近い動きがあったが当時の金にして百万円近い延滞金を徴収し、それ以降は良識ある納税が行なわれた。
 しかし、感情の対立は更にエスカレートし、大田原市へ全村合併できないのは、議員の中に三分村を支持する議員がいるからだとする考えに至り、議員解職請求へと発展した。
 八月三十一日湯津上村大田原市合併対策委員会鈴木恒三郎を議員解職請求の代表者としての証明書交付を村選挙管理委員会に願い出た。当然のように分村を支持する側は、小室徳寿を議会解散請求の代表者としての証明書交付を九月三日村選挙管理委員会に願い出た。一方が、多数決で決定した合併案に反対する議員は解職だと主張し、一方は単に数で押しまくるやり方の議会は解散だと主張したともいえる。
 それぞれ同日付で証明書が交付された。議員解職請求、議会解散請求は、選管から請求代表者の証明書の交付を受け、選管が告示してある(当時は毎年十二月二十日現在で告示)有権者の三分の一以上の本人の署名及び押印を、選管が代表者の告示をした日から一カ月以内に集め、解職又は解散の請求を届出る地方自治法第八〇条(議員解職)又は第七六条(議会解散)の規定によったものである。
 両請求とも法定期日内に提出され、署名簿の縦覧・異議申出・審査が行なわれた。十一月になって選管の確定があり、正規に議員五名(谷国夫、花塚善蔵、佐藤三郎、佐藤清、高久兼)にかかる議員解職請求、議会解散請求は、何れも有権者の三分の一以上となり成立し、選挙人の賛否投票(何れも過半数の同意があれば解職又は解散される)に付されることになった。議員解職請求は一名につき一件であるから同時に六つのリコールが提出されたもので、全国でも珍しいケースとして報道陣が連日取材に訪れた。
 当初、署名簿の縦覧の段階で、同一人の筆によるもの、同一人の印を使用しているなどの異議申出が両派から数百名あり、この審査に選管は数十日を要した。村は、異議申出の対象となった有権者が、選管から出頭を命じられ、出頭した場合一人につき一日百円の費用弁償を支払う特別の条例を設けた。当時百円で一食の副食費がやや間にあったという。選管の出頭命令に応じない有権者の審査は、選管委員が自転車で一戸ごと訪問調査した。(この場合は百円の支払いはしない)
 かくて、年内に全作業を終了し、解職請求解散請求を受けた側が、自分の立場を説明する弁明書千字以内の提出を待つだけとなった。選管は、選挙人の投票に付す日を三十三年一月十八日と決定した。
 この署名集めと並行しての陳情合戦・チラシ合戦は一層熾烈化した。品川合併促進委員会(県案支持派)などは、青壮年部・婦人部の下部組織と共同の小冊子式の印刷物を作成、議員解職の不当を訴え、県案による合併の妥当性を呼びかけるなど大型化された広報活動が行なわれた。当時の両派のチラシの全文を掲げれば、より理解を深められるが紙数の関係で割愛し、想像を超えた運動と記しておく。
 知事は、行政の混乱を憂え、十月二十八日午後一時から知事応接室において、村長・議会正副議長及び議員・各派の合併対策委員長と懇談したいとの公文を寄せてきた。この会合には、解職請求を受けている五名の議員は欠席したが、大田原市合体合併を主張する議員一一名、県案支持派から藤田喜作(品川)、小室徳寿(佐良土)、清水新太郎(狭原)大田原市合併支持派から鈴木恒三郎(片府田)、金森正寿(佐良土)、永山秀樹(湯津上)と村長及び行政課長が出席した。
 知事は、本村の合併問題は長い間の色々な事情と端的にいって感情もあり紛争を続けてきた。各位にも夫々の立場があり、困難なことは重々察するが、従来のゆきがかりをすて、大同団結し、一日も早く合併を完了して新市町村の住民として参加してほしい。国とも何回も慎重に協議してきたが、県の三分村案が最も合理的だということになり、大臣も何とか地元の人々が大同団結してやってほしいと決定したものである。この線にそった勧告が出されると思うが、将来のことを考えてほしいと挨拶した。大田原市合併支持派から計画の変更はできないかとの質問に対し知事は、法の善し悪しを論ずるより、今は国・県そして住民の意思で決定することであり、岡目八目で他人の判断に従ってやった場合、意外と良案名案があるものだし、県及び国の決定は現段階では動かせないと強調した。
 更に、全村の住民投票による解決を考えているかとの質問に対しては、その考え方、用意はないと答弁した。知事は、今回の会合は総理大臣勧告も近く発せられるので早急に解決してほしいと要請したことにとどめ、この席でお互いが過去の経緯、やり方を批判しあっても解決の糸口にはならないので、冷静に将来を考えあうことを結びとして散会しようと述べ、会を閉じた。
 村内では十一月中、大臣勧告は出る、出ないが論争の中心となり、チラシもこの応酬をめぐって合併とリコール一色にぬりつぶされた。
 湯津上村大田原市合併対策委員会は、十二月一日(旧十月十日)を期して片府田・品川・蛭畑・佐良土・小川町へのコースを選定、自転車による総蹶起大行進を行ない、自作の愛村の歌を合唱し、気勢をあげた。
 かねて中央審議会小委員会(元内務大臣湯沢三千男を委員長とする一一名)が、自治庁の実地調査、知事からの申請文、両派の陳情などを参考に審査を進めていたが、内閣総理大臣勧告は発令すべしの答申が提出され、十二月十四日湯津上村を筆頭に七件が勧告されることとなった。十四日付の速達便で十六日午後二時勧告文を手交するから出県するようにとの公文を受理し、出県受領した。勧告文の全文は次のとおりである。
      勧告書
         栃木県那須郡  湯津上村
 新市町村建設促進法第二九条第一項の規定により、栃木県知事から申請のあった貴村にかかる町村合併に関し、新市町村建設促進中央審議会の意見をきき慎重に審査した結果、さきに同県知事が協議して定めた次の町村合併に関する計画に基いて町村合併を行うべきものと認めるので、当該計画に基づき町村合併を行うよう同法同条同項の規定により勧告する。
  昭和三十二年十二月十四日
              内閣総理大臣  岸信介
  栃木県那須郡湯津上村の一部
   同県 大田原市
  栃木県那須郡湯津上村の一部
   同県同郡 小川町
  栃木県那須郡湯津上村の一部
   同県同郡 黒羽町

 この勧告発令に際し、自治庁長官は談話を発表し「新市町村建設促進中央審議会の答申を得、更に慎重に検討した結果、全国的に町村合併の大部分が完了し、新市町村の建設が着々と進められている現段階において、一部の小規模町村が合併の実現をみないことは、当該町村のみならず当該地域の発展にも支障を来すと憂慮される。大局的見地に立って、すみやかに実現してほしい。」と述べている。栃木県は、勧告文の交付とともに、次のチラシを大田原市民に配布している。県の考え方と姿勢を知るため、その全文を掲げる。
     湯津上村の合併について
      大田原市民の皆さんに告ぐ!
 ○ 大田原市の議会は、湯津上村の全部を大田原市に吸収合併することを議決しました。大田原市が何故に湯津上村の全部を合併しなければならないのでしょうか。その是非を冷静に考えてみて下さい。大田原市は、すでに近隣の町村と合併して市制を施行し、新市の建設に全力を傾注すべき時期に来ております。新市の建設に当って、湯津上村の全部を吸収しなければならない絶対的な理由は認められません。新市の建設に当って、市の一体性を確保することは勿論ですが、それにも増して隣接町村との友好関係を保持することが絶対に必要です。市議会が、国や県の方針に反して湯津上村の吸収合併を議決した後の隣接町村との関係はどうなっているでしょうか。市政が市民の欲するように行なわれているでしょうか。それを市民の皆さん自身が検討してみる必要はないでしょうか。よき市政は、市民のためのものでなければなりません。

 ○ 湯津上村三分村合併は、国の中央審議会においても妥当であると認定され、三分村合併を実施するよう内閣総理大臣から湯津上村と大田原市に対し勧告が発せられました。巷間、大田原市は、知事や総理大臣の勧告を拒否しても未合併市町村に該当しないという説を唱える者もあるようですが、未合併市町村であるかどうかは、同県において認定するものですから議論の余地はないのです。未合併市町村となれば、国の財政的援助措置も思うようには受けられないばかりでなく、法律の規定に基き、勝手に市単独の事業を実施したり、施設を設置したりすることはできません。すべて知事の承認を受けなければならないし、この規定に違反して行なった場合には、知事は中止を命じなければならないことになっています。県は、大田原市がそのような事態に立ち至ることを極力回避したいばかりに、湯津上村の三分合併を速かに完了し、延いては、大田原市が新市の建設に専念できるように協力したいと考えているのです。

 ○ 大田原市の皆さん!! 皆さんは、この県の真意をどう考えておられますか。町村合併は、義理や人情や面子の問題ではありません。市民全体の将来を卜する重要な問題です。

 ○ 市民の皆さん!! 大田原市当局が発せられないと言い切っていた内閣総理大臣の勧告は、すでに発せられたのです。皆さんの力を結集して、三分合併を早く完了させ、新市の建設が一日でも早くできるようにして下さい。

    昭和三十二年十二月
                      栃木県
 これと前後して解職請求を受けている議員五名は、村選管に対し、弁明書(千字以内と法定)を提出した。五名とも同一文面である。
      弁明書
 本村合併問題の紛争混乱は我々の遺憾とするところであるが、この問題に関連して県案を支持する村議会議員のみをリコールしようとする鈴木恒三郎を代表とする一部村民の解職請求の理由は不当なものであり、我々の納得できるものではない。
 彼等は日本国憲法により住民の手による住民の政治が行なわれるべきことを強調しているが、民主主義政治に於て主権在民の理念は言を俟たない。併し人間社会の共同組織体としての国家機構にあっては、自らその国家の法則制度に従ってその範疇で民意が行使されねばならぬことを彼等は忘却している。換言すれば日本は法治国家である故にこの法則の枠の内で民意を反映せしめる政治である。
 本村の合併問題の混乱は、この国家法則を無視する偏見的な民意のみを強調する指導者達の独善的観念に原因するものである。
 町村合併は、国家の法則制度により地方自治法を基本とする町村合併促進法・新市町村建設促進法等の規定する処に従って行なわれるべきであり、これによれば村民の希望と県の意思と国家の意思とが合致することによって合併を完成することが出来るのである。これら関係は不可欠の要件をなしているものである。
 而して国も県も民主主義政治の原則に従い、輿論の反映として国に於ては中央審議会に、県に於ては新市町村建設促進審議会及び県議会にはかりその議を経て定めるものであり、決して専権をほしいままにするものではない。殊に本村の三分村合併計画は村民多数の請願を容れて県が当初の小川町合体合併案を変更して決定したものであり、国に於てもこの合併計画は妥当なものであると認めて内閣総理大臣勧告を行なうことを決定したものである。
 ここに於て村民は冷静にこの事態を検討してみる必要がある。徒らに自己独善の民意を強調して国及び県の意思を省みるところがなければ、本村は未合併村として残り国及び県より不利益処分を受ける憂目をみるであろう。ここに於て彼等が合併試案混乱の罪を我等に転嫁してリコールしようとすることは不当なる処置であり、仮に我等五名の議員を解職せしめ得たとしても、合併問題の根本的解決とはならず、ただに紛糾の度を増すばかりであろう。
 合併問題混迷のこんにちある責任を追究するとするならば、それば我等五名のみならず、村議会全議員の負うべきものである。
 我等は賢明なる村民諸氏の正しき判断を乞い願い、ここに敢えて弁明し以って合併完成の明日へ期待を寄せるものである。

 村長は、十二月二十七日朝、内閣総理大臣勧告文を告示するとともに、同日議会を招集し、議員提案による勧告拒否の議決を待った。村民の庁舎をとりまく数百名。勧告万歳や勧告拒否の声。怒号に罵声。議員が庁舎に入れないで警官も何十名が出動。庁内の机の上に警官が仁王立ち。声をからして整理するがさっぱり。事務は一切できない。各議員は自宅を出るのに一苦労。庁舎前にきてもなかなか入れない。数人のボデーガードつきで入ろうとする。もみ合っている中にオーバー、上衣のボタンがとれる。ネクタイが背中へ廻る。やがて五名の議員は、開会前に辞表を提出して退場。残った議員一四名が副議長を議長席につけ、万場一致拍手で可決した。隊列を組み、気勢をあげて帰る両派の住民の姿。
 当日の議案は次のとおりである。
   内閣総理大臣の勧告を拒否することについて
 昭和三十二年十二月十四日付内閣総理大臣の町村合併に関する勧告は、これを拒否するものとする。
 昭和三十二年十二月十七日
       湯津上村議会議員 郡司長一郎
                  (外一三名 氏名略)
理由 昭和三十二年十二月十四日付の町村合併に関する内閣総理大臣の勧告は、さきに本議会が住民多数の輿論を忠実に反映して議決した、全村大田原市への編入合併計画に明らかに悖るものである。我々は、公正にして冷静な選挙民の誠実な要請に迅速に、且つ、正しく応える責務を負う議員である。故に、自由と平等の理念を裏付けとする本村の民主的発展を希うものであり、その実現の前には私情をすてて大道に生きる信念を堅持しなければならない。仍って、茲に敢て総理大臣勧告といえども断呼としてこれを拒否し、議会の信念の不動性を明示し、あくまで村内輿論を基盤とした合併実現のため邁進する覚悟を内外に広く示し、本村が希望する合併方向を強く推進せんとするものである。

 翌日から村・両派・県とチラシの配付合戦は続いた。五名の議員の辞職に伴い、議員解職請求の賛否投票は行なわないこととなった。議会解散請求は続けられていたので、議会は次の弁明書を村選管に提出し、年が明ける一月十八日が賛否投票、一月二十六日が議員の補欠選挙投票日と決定され、選管はその準備に追われた。
     弁明書
 本村の合併問題については、年を重ねること数年に及び未だその実現をみないことは誠に遺憾である。これを議会全員の責任として議会の解散請求を行なった小室徳寿を代表とする一部の人々が、真に住民の希望に叶った合併を考えないで、単に地形や距離的観念にのみ立った薄弱極る論拠をもって三分村を主張することは、稚児の考えに似たものであり、速やかに改められなければならないものと信ずる。総理大臣勧告は国家最高の裁判であるとし、これによってすべてが解決されたごとく考えている一部村民は、明らかに民主主義に目覚めない旧態依然の観念の持主という外はない。
 県の面子を主とした三分村計画の固執強要は、住民の意思を無視した圧政であり、確定されていないことを今にも適用されるが如く法の解釈を宣伝したことにも、自治庁の考え方と正反対のことが多く、却って三分村は良識ある村民大多数の反対するところとなり、これらの與論に基く全村大田原市への合併が決議されたことは周知の事実である。我々は、常に大衆のために生き、民衆に同化する政治を行なうよう努めている。故に、村百年の将来の発展と住民の福祉向上を考えるときは、あくまで民主的な発展を約束された合併以外には納得し得ないし、これに反するものはたとえ内閣総理大臣勧告をも断呼としてこれを拒むものである。
 解散請求を行なった村民は、この大きな目的を忘れて徒らに一部の個人的な関係から不合理な言を弄し、多数の村民が希望する大田原市への全村合併に理屈に合わぬ批判を加え、常に民主主義は少数が大多数に同調することが本旨であると主張していた諸君が、都合の良い場合のみに民主主義を叫び、都合や形態の悪いときには県や国にかこつけてきたのは、自己の信念の浮動性を示している。
 さきに解職を請求された五人の議員が弁明書を提出して後も、多数の村民の審刊が下る直前まで総理大臣勧告が出れば必ず村内は三分村になることを心ひそかに期待していた様子だが、多数村民の益々強固な団結の姿に自らの劣勢を悟り職を去ったことは誠に遺憾に思う。
 我々は、最後の日まで円満な話し合いによる和解を希んでいたが、事茲に至っては私情をすて村民の輿論に基く合併実現のため勇躍一歩進まなければならない。
 我々は、茲に改めて三分村を主張する村民の反省を求めると共に、議会を解散するが如き誤った考えをすて、全村民が我々議会と一丸となって大田原市合併実現に邁進し、明るい郷土建設の一日も早からんことを希ってやまない。

 十二月二十三日には知事名で勧告文は新市町村建設促進法第二〇条第二項の規定により告示及び村民に周知するようになっているので、その確認する文書が入った。次いで二十五日には栃木県の次のチラシの配布もあった関係で、合体合併派は蛭畑公民館に役員全部(四二五名)を集め、村長、議員一四名を招き、情勢報告会を開き、実現の運動をより強力に推進する気勢をあげた。
  湯津上村の合併について
    村民各位に告ぐ!!
 湯津上村三分合併を実現すべき旨の内閣総理大臣の勧告が発せられてからすでに旬日を経過した。この間、村議会においては、多数をたのみ大臣勧告拒否の暴挙をあえて行ない、大多数住民の希望と期待を粉砕するの挙に出たことは、各位の幸福を阻止する誠に悲しむべき事である。
 湯津上村民各位!! 各位は一体この勧告をどう考えておられるだろう。いやしくも一国の最高責任者たる内閣総理大臣が発したものである。これが変更され、また取消されるということは絶対にあり得ないのである。この大臣勧告の変更や取消を可能なるものの如く、まことしやかに宣伝する者は、国や地方行政のちつじょを乱すことはもとより、善良な村民各位を欺瞞し、やがては愛する郷土を泥土化して救うべからざる最悪の事態におい込む最も忌むべき破壊者である。
 湯津上村は、今や未合併町村の烙印を押され、法律に基き自治権の一部に制限が加えられ、国や県の厳しい監督下におかれる結果を招来しており、各位の福祉に重大な影響をもたらしているのである。
 親愛なる湯津上村民各位!! 県は、各位の良識と善意を信頼し、湯津上村のこの事態を憂え、一刻も早く総理大臣勧告に基き、湯津上村三分合併を決意することを村民各位に改めて勧告するものである。湯津上村民の福祉をかち得るか否かは、一つにかかって各位の決断によるものである。各位は、村議会及び執行部に対してこれを要求しこれを執行させる権利と責任を有するのである。
 総理大臣勧告は、すでに発せられたのである。湯津上村の三分合併は最早動かすことのできないものとなったが、東部地区・南部地区及び西部地区は、それぞれ大多数の住民が心から希望している黒羽町・小川町及び大田原市に合併することは、明日にでも実現できることなのである。
 各位は、この事情を冷静に考え、流言ひ語にまどわされることなく毅然としてこれが実現に邁進すべきである。
 県は、勧告に基く合併を完了すれば関係区住民が、それぞれ帰属することとなる新市町の建設促進のために、あらゆる角度から育成助長の援助を行ない、各位の福祉を増進する考えである。
 県は、ここに重ねて湯津上村三分合併を実現するよう村民各位の決断を促すものである。
   昭和三十二年十二月
                      栃木県

 村長・議員は翌三十三年一月五日、県その他関係方面の陳情に出発し合併実現に努めた。チラシ合戦は一段と烈しくなったが選管は、十八日の議会解散請求の賛否投票の啓発用チラシ、一月二十六日の補欠選挙のため調製する補充選挙人名簿への有資格者の申請に関する注意チラシなどの配布を行ない、各戸には毎日何かチラシが届けられるという乱発ぶりが続き、夜になれば各部落には見張り番が立つなど、戦時中の戒厳令下じみてきた。
 問題が更に大きくなったのは、県のチラシの文面をめぐり、自治庁に談判するまで発展し、限りない紛争は舞台を東京に移した。問題の文面は、一月に入っての県のチラシの次の一文であった。
「昔でいえば天皇陛下の裁可がおりたも同然です。三分合併の勧告は内閣が変っても、もはや変更されることはないのです。これに逆らうこと自体が村を自滅に追い込む結果となることです。」

「天皇陛下の裁可」が問題となった。更に、一月七日村長が知事を訪ね勧告拒否の公文を手交しようとして、担当課で職員と知事に面接を申込んだところ、知事は面会に応じない、応じたくないといってやりとりのとき、総理大臣勧告は最高裁判所の判決と同じ位の権威あるものだとの表現が、時が時だけに物議をかもし、翌日自治庁に出向き、チラシを前に談判する一幕があり、大田原市合併派は益々その運動に熱を入れ、一種の執念さえ加えた感じがした。大田原市長ほか議員の運動も、合同又は別行動の烈しい精力的なものだった。
 想えば、戦後における村内の大きな問題の中でこれ以上の紛争はなかった。その参加している規模、組織化された旧軍隊式の規律と統卒・熱意・期間・費用のどれをとっても二度と訪れることのない、一種の内乱的様相といえるだろう。中学校を現在地に建てたときでも、三〇数回の議会協議会や部落懇談会で終結をみている。
 更にエキサイトした対立は、昭和三十三年一月十八日の議会解散請求の賛否投票日にその頂点に達した。その一週間位前からの夜間はまさに戒厳令下であり、懐中電灯を手にした張番が立ち、中にはゲートル着用の姿もあり、ズボンのポケットに自転車のチェーンなどしのぼせていた若者もあったという。警察当局の警備も連日のように国警の予備員や隣接署の応援が馳けつけ、駐在所を本部として警戒に当っていた。県警本部からの総指揮官の帰庁は午前二時、翌朝八時出発の日程であった。
 十八日には各投票所は緊迫した空気の中で開かれ、固い表情をした投票管理者、投票立会人が席を占めていた。投票所への有権者の送迎用のオートバイ・自転車・リヤカーなどが続き、議員選挙より熱気があふれていた。警察のパトロールカーは約五分おきに主要道路を通過しているように何十台もの車が配され、村内各所における小競りあいや行き過ぎた行為のないように監視を行なっていた。警官がタバコを切らし購入しようとして「売らない。県案支持のタバコ屋で買え」といわれて困ったと後日きき、当時の住民感情の烈しさが推測できた。
 開票は、即日役場二階で行なわれ、警官が庁舎入口から庁内階段・開票所まで人垣を作っていた。庁舎の外は庭・隣接の田畑に群集がつめかけマイクの中間報告のたびに喊声あり、拍手あり、万歳ありで殺気だった熱気があった。開票の結果は、議会解散賛成一、三六九票、議会解散反対二、五三七票、無効投票二四票、当日の有権者四、〇九一名であった。
 かくて前年九月からの争いは、議員五名の辞職議会解散は不成立の結果となった。
 一月二十六日の補欠選挙は、前年五月二十七日死亡の尾畑孫市、同年七月十八日助役就任のため辞職した江崎博夫、それに十二月十七日辞職した花塚善蔵・谷国夫・佐藤三郎・佐藤清・高久兼のあわせて七名の補充を行なうべき、公職選挙法第一一三条の規定によるものであった。(定数二二名の六分の一を超える欠員となったためである。)
 立候補者は七名とも大田原市合併派から届出があっただけなので無投票となった。議員全員二二名が県案と異なる大田原市合併支持議員で果してその主張する合併が実現できるだろうかと注目された。
 たまたま議会解散の賛否投票前から他町民による応援街頭演説で、四百万円の公金が合併のため流用され、不当に使われたり、二百万円の地方交付税が使途不明であるとの発言があったと報ぜられた。その噂と時を同じくして県地方課の行政指導監査(定期的に県内各市町村の財政指導監査)で四名の県職員が来庁した。この街頭発言の裏付け調査と報ぜられまたまた問題が起きた。事のなりゆきで県の係長も、そのような流用も使途不明金はなかったと講評に入れることとなり、更に帰庁の上、後日新聞社から監査の結果の公表請求があった場合、そのような目的の監査でなく、そのような事実もなかったことを報道するよう上司に伝えることを村長に回答した。単なる行政的指導も時には思わぬ大きな問題となった好例である。
 一月三十一日、補選後の初議会が開かれ、意気大いにあがるとともにその責任の重大となった議会は、次の決議を行ない、合併実現を期した。
   町村合併に関する決議
われわれは、常に自由と平和を愛好する国民の一員である。われわれは、自由にして公正な選挙をもって選ばれた誇りある住民の代表者である。よって、われわれは、常に民衆のために生き、民衆のための政治を行ない、かつ、民衆に同化した代表者であるべき責任と義務を負っている。
 現在、本村は国家の要請に応えんとする熱意と誠実をもって、町村合併に直面し、その達成に村民力をあわせ、限りない努力を払っている。たまたま本村の希望する合併は、県計画及び内閣総理大臣の三分村合併勧告と方位相反する大田原市への一丸合併である。合併せんとする意欲があり、かつ村民の絶対多数の賛成と支持があっても、ただ単に県計画と異なるの故をもって許容されないことは誠に遺憾に堪えない。しかし、現代は民主主義である。多数の住民の希望が、単に県の体面や県議会議員の選挙地盤等の関係で叶えられないことは断じてないと確信するものである。
 村内の大勢は、本年一月十八日に行なった議会解散の投票及び同月二十六日に行なった補欠選挙の結果が示すとおり、大田原市へ全村合併せんとする村民が絶対多数であったことは明白である。この事実よりして国及び県は速かに三分村の非なることを認め、その計画を変更すべきである。この結果が不幸にして実態と認め難いとするならば、われわれは住民投票を行なうよう強く要請する。住民投票によって全村民が大田原市合併を望んでいることを証する絶対的数字を示すことを確信する。この時こそ、国・県及び県議会は本村の大田原市への編入を認めるべきである。
 われわれは、住民の福利の享受と今後百年の発展の基礎確立のためには、あらゆる県の政治的圧迫と財政的弾圧を恐れず、或いは県会議員の個人的野望を粉砕し、もって所期の目的を達成する覚悟である。
 やがて、われわれに反目する村民が挙ってわれわれ議会の行動と実績に、賞讃と謝辞を呈するまで、益々一致団結、大田原市湯津上村の合併実現に邁進する決意を重ねて表明する。
 右決議する。
  昭和三十三年一月三十一日
                湯津上村議会

 そして、明けて二月一日から村長・議会・合併対策委員会など民間組織の活発な運動が展開されて行った。本村と日を同じく内閣総理大臣の勧告を受けた岡山県下の三件、福井県下の一件、島根県下の一件、石川県下の一件は、相互に励まし合い、情報の交換などを行なった。また全国で知事勧告を受けた町村、これから受ける予測の町村から照会あり、視察ありの月が続いた。全国的に町村合併の嵐が吹き荒れる中で、自治庁は、七月末日頃までに各ブロック会議での地方団体側の意見を参考に処理方針の基本的な考え方をまとめ、全国で五百から残る未合併町村を処理する要綱を自民党地方制度調査特別委員会(委員長郡祐一)と同党地方行政部会の合同会議に提出されることとなってきた。
 間が悪いときは仕方ないもので昭和三十三年六月一日、中学校の前校舎が放火焼失となり、この校舎の分の火災保険料を県町村会担当職員が横領(県下の約一〇校分)し、保険会社に契約されていない事件があった。県の未合併村の融資は困難の回答に、自治庁・大蔵省・財務局と夜もねずに雨の中を歩き、池田勇人(後に首相)・大橋武夫(元労相)・大野伴睦(元自民党副総裁)等の力添えで起債三四〇万円、全国町村会・県町村会等の見舞金百四五万円等で補足し、一般会計から三一五万七〇〇〇円を投じて現在の校舎等を再建したのである。
 この直後に、自治庁は、町村の実情によっては国の方針と適合しないものがかなりあるので、改めて推進方法を再検討する動きがあった。全国での町村合併の進捗率は、九〇%以上に達していたので年内処理を目指す動きがあった。この情報が伝えられるや運動は陳情を主として行なわれ、七月二十五日には、県庁前広場に大田原市合併派の役員全員が、ハチマキ姿で気勢をあげた。このような運動の展開が続き、一喜一憂を繰返したが、合併の実現には至らず三十四年の村長・議員の任期満了を迎えることとなった。
 村長選挙については、当初から三分村派対一丸合併派の対決が明白であり、告示と同時に三分村派からは永山健寿、一丸合併派からは、助役である江崎博夫が推され、昨年一月十八日の議会解散賛否投票の再現となった。投票終了後、即日開票の結果、江崎博夫二、四四五票、永山健寿一、四三五票で江崎村長の誕生となった。議員選挙は、三分村派は八名、一丸合併派は一五名の候補を立て、定数二二名を激しく争ったが、一丸合併派が一名落選となり、七月三十日、議員の中から深沢国盛が助役に就任し、次点者が繰上げ当選となり、一丸合併派は人員の確保はできたが、一四対八と議員の数では絶対的優勢は一歩後退した。
 その後も合併運動は、断続的に続けられ両派の主張する本筋は変ることなく県・国等の答弁も全く同じ紋切り型の繰り返しに終った。
 三十五年は、国民健康保険事業の開始に当り、保険証の集団返戻などがあったが、国民皆保険の時代的流れで徐々に落着いた。秋の国勢調査に際し、調査員拒否を行なうなど三分村派の動きはあったが、烈しい三十二年の頃に比べ、両派とも小競り合い程度となってきた。
 三十六年度の新年度予算審議の三月定例議会で、未合併町村と財政運営をめぐり、若干の討論がなされたが、原案も満場一致可決されるという泰平ムードも少し感じられるようになった。
 三月四日、知事から早急に合併を解決するよう要請があったが、議会終了を待って四月に知事と会談した。この際も、新しく就任した横川知事に、早期合併を解決するためには大田原市との合併を認めるか、全村の住民投票によってほしいと迫ったが、勧告による解決を要請したのでそのまま別れた。かくて、三十八年の任期満了まで、時おり議会の議題の関連質疑、又は一般質問に町村合併の話題は出たが、発展的な意見はなく、時には談笑する場面もあり、心の底には夫々自分が正しいと信じており、硬直化の兆が見えた。
 昭和三十八年の四月には、村長選は無投票で江崎村長が再選され、議会は両派と明確に分ける必要がない感じがする程、平和な空気につつまれてきた。(勿論、心の底流は別であるが)
 三十八年九月十二日、県地方課長から十七日に知事出席のうえ、村長と会談したいと申入れがあった。知事は、一〇年に及ぶ合併問題は、お互いが昔のことを責めあっても事の解決にはならないから、地域住民の意向を改めて把握するため、九月二十六日大字佐良土、二十七日午前中は大字片府田・新宿・蛭田・蛭畑、二十七日午後大字狭原・小船渡・湯津上の日程で行なうと提案、村長もこれを了承した。部落懇談会という名称で参会者は、村長・議会議員・区長・農業関係・商工業関係・教育関係・婦人会・青年団、その他学識経験者の代表とし、一会場八〇名から八六名とし、更に那須郡選出県会議員・県総務部長・地方課長を合せて一〇名程度として企画された。警戒のため駐在所にも連絡を行ない、地区ごとに合体合併を希望する者、三分村を希望する者を同数届出てもらうこととした。佐良土は両派から四〇名。西部・東部は両派から四三名。届出により名簿を作成、挙手発言を求める方法で行なったが、意見は烈しかったが、その内容は冷静さを取戻していた。
 十月九日この結果について県と村との事務レベルの話しあいが行なわれ、改めて部落別の意見を聴取することになった。
 十月二十四日は、佐良土地区とし、公民館本館(当時の佐良土小講堂)において午前一〇時三〇分から一二時三〇分まで仲宿・銀内・二升田・湯の輪・上の原、午後一時から三時まで田宿・古宿、三時一〇分から五時一〇分まで西の原・山下・竹の皮・中島の順で行なわれた。十月二十五日は東部地区館において、午前一〇時四〇分から一二時四〇分まで中の原、午後一時から三時まで入山・大河内・西ノ根・田島、午後三時一〇分から五時一〇分まで大野、その他の湯津上の下組、十月二十六日東部地区館で午前一〇時四〇分から一二時四〇分まで狭原、午後一時一〇分から三時一〇分まで小船渡と行なわれた。今回の主催は、那須郡選出県会議員及び大田原市選出県会議員と県議会総務常任委員会の正副委員長とし、村長・議長のほかそれぞれ地元議員が同席することとなった。部落の人は、有権者ならその時間帯の部落属地者なら誰でも参加ができることとした。
 これは、前回の地区別の両派の代表の意見聴取を一転して部落別の内容を知ろうとするものであり、知事・県議分が本村の合併問題解決案を考える参考とするためのものであった。
 県は、十二月十三日県正庁において知事出席のうえ村長・議会議員全員と協議したい旨通知してきた。誰しもこのときの会談が、合併終結となる記念すべき会談となることを話しあいながら参加した。
 横川知事は、合併の完了できなかった経緯をふり返り、更に住民の地区別・部落別に詳細に見聞するとき、今なお何れの案を強行するにしても再び不要の争いを惹起することは必然である。県も、村も、村民も、関係市町もこの問題を改めて見なおし、県の調停案として「大字狭原の大部分を黒羽町に、残余の部分を大田原市に合併する」案を示したのである。出席の村長、議員もこれに同意し、帰村後、十二月二十三日に至り次のような議案を議決したのである。
追加議案第一号
   議決の取消について
 昭和三十二年三月二十七日の定例議会において議決された追加議案第三号「那須郡湯津上村の廃止編入について」の議決は、これを取消すものとする。
 昭和三十八年十二月二十三日
       提出者  湯津上村議会議員  永山秀樹
              同       郡司弘之助
              同       坂主行雄
       賛成者    同       墨谷喜一
                      (外九名氏名略)

理由 本村の合併指針は、昭和三十二年三月二十七日の定例議会で議決された「全村を大田原市に編入合併することであったが、今日までその終結を見ることができなかった。然るに、本年十二月十三日関係市町村に対し新たな調停案が示された。これは県知事と郡選出県議会議員が慎重協議の上示された調停案で、前の本村の議決に比べ多分に不満の点はあるが、現在の情勢を詳さに検討するとき、村内の局部的な部落の総意を汲み取り、併せて村内大多数の村民が納得できる合併案である。また、現段階は、合併の終結を急ぎ、村民の福祉の増進を図ることが緊急事である。従って、若干の不平と不満を耐え、合併の終結を急がねばならない。よって、前の議決を取消し、白紙の状態に戻し、早急に県の調停案の実現に努めるべき時と信じ、ここに前議決の取り消しの本議案を提出した次第である。

 更に、同日議会は、次の決議を行っている。
     決議
 本村の合併問題は、昭和二十八年にその端を発し、茲に一〇有余年の月日を重ねたが、その終結を見るに至らないのは我々議会として甚だ遺憾であり、その責務に照し、村民に深く謝罪するに値するものがある。然し、これも徒らに荏苒日を空しくしていたものではなく極めて広く、深く村民の意を体した合併を完結させようとする誠意と熱意が、却って混乱を招き今日の容態を示したものである。
 然し、今日のあらゆる情勢は小規模町村の健全な運営を許さず、一般住民の福祉の享受も亦自ら他市町村に劣ることは、残念ながら認めなければならない事実である。
 我々は、ここに於て小異をすて大同につく考えを持ち、お互いの不平を忍び、多くの不満を耐えて合併の終結を見出さなければならないときに追いこまれていると信ずる。
 我々は、文字どおり心機一転して合併を解決しようという有形無形の覚悟を新たにし、村民の負託に応えるべきである。その最良の方法は、県の調停案に従って合併することである。
 我々は、ここに多くの異論を述べず、昭和三十八年十二月十三日に示された県の調停案である「大字狭原の大部分を黒羽町に、残余の部分を大田原市に合併する」の案に従って合併を終結させることを広く村民の前に公正忠実に宣言する。
右決議する。
  昭和三十八年十二月二十三日
               湯津上村議会

 この決議は、直ちに村長・議長の連名で村民に周知させた。しかし、この合併調停案による合併も容易に解決せず、翌三十九年六月の定例議会でも討論されたが、終結への道は遠い感じだった。
 八月下旬、知事から九月八日県庁において村長・議長・副議長・総務常任委員長の出席を求め、関係市町と協議したいとの公文に接した。この協議には、県側は知事・副知事・総務部長・地方課長、県議では総務常任委員会委員長・和知・栗川・平山・田代・渡辺の六名、関係市町は前記四名が出席した。知事は、昨年末に示した調停案も小船渡地区の了解がとれず未だ実現しない。湯津上村を除いた関係市町は大した損害もないが、湯津上村は、道路の舗装が一メートルもない状態にある。湯津上村は、比較的財政が豊かだったからこれまで持ちこたえられたので他の市町村ならおおごとだったろう。この機会に合併問題を早く解決したいと述べた。村長は、一日も早く解決したいが議員の中にどうしても村を割りたくないという強い意見があり、合併が遅れていると説明した。黒羽町長は、小船渡・狭原の両字から正反対の陳情を受けて困っている。県の最終案であればやむを得ないが、地域住民の意思を尊重したいと発言した。大田原市は、意見を述べる筋合いではないが県案は正当なりと評価していると述べた。湯津上村の独立を認めてはの意見もあったが、知事は、勧告も出してあるので関係全市町村の了解がなければ不可能であるとし、村長もまた即時了解の回答はでき兼ねると発言したので今後にこの会を続けることとし散会した。
 九月十三日には協議会、同日湯津上村大田原市合併対策委員会では蛭畑公民館で役員会、九月十六日には議員協議会が再び開かれるというあわただしい動きがでてきた。議員協議会も対策委員会も県調停案に賛成反対で対立し、再び混乱を招きそうになった。
 村長は意を決し、十一月十九日を期し、湯津上村公民館(佐良土小学校講堂)に村民大会を開き、集まった村民の意思により決定したいとの公文を全世帯に配付した。黒羽警察署にも連絡し、万一の警戒を依頼した。しかし、町村合併に対する往時の熱狂的信仰的な盛りあがりはなく、むしろ町村合併は県・村・議会が懸命の努力を一〇年続けても不可能の様相を呈しており、隣接の市町村・議員も交代されていて、今更、湯津上村合併を無理しても受入れるという気運に乏しいこと、村内の気運もまた抗争より建設への路線を選ぶべきだとの良識派が増えつつある情勢と推測できること、更に、知事が関係市町に対し湯津上村との合併関係を解消する了解を得てあることなどの説明で、若干の意見はあったが、合併を一時棚あげしても大きな混乱がないと推測された。
 村長は、十一月二十四日に臨時議会を招集し、村長の名において町村合併終結宣言の決議を議案として提出、満場一致で可決された。決議は次のとおりである。
 
   町村合併に関する決議
 本村の町村合併については、常に過去の変せんを参考とし、時宜に適した合併の終結を急ぐべく努めてきた。特に、昨年十二月二十三日議会の行なった決議によって解決の兆が見えたので特段の努力を尽したがその結論を得ず、更に本年十月十三日県から「大田原及び黒羽町が本村との合併関係を解消した」旨の指示を受けるに至り、今後は、村は従来の合併計画の一切を解消し、新たな村づくりに誠意と努力を尽すことを余儀なくされた。
 従って、昨年十二月二十三日の村議会の決議の精神及び方法を茲に取消し、従来の一連の事態をすべて解消し、村民の一体団結と善意をもって明るい豊かな村づくりに邁進することを村是とし、その施策に万全を期したい。
 昭和三十九年十一月二十四日
              湯津上村長 江崎博夫
(理由)本村の町村合併については、昨年十二月十三日県から示された最終調停案は「大字狭原を黒羽町へ、残る部分を大田原市へ」合併することで、村議会は同月二十三日本案を促進すべく決議され、当局も亦この決議に基づき、合併の早期解決を期すべく誠意をもって万全の努力を尽してきたが、遂にその終結を得られなかった。

 県は、本村の合併については合併不能の由をもって合併解消をされてはの意を伝えられ、本年十月十三日県からの連絡により大田原市黒羽町には町村合併の解消について同意を得た旨指示され、合併推進については全く方途を失したことを痛感するものである。
 このままの姿で合併を推進することは、諸般の事情に照し、村民の福祉のため甚だ不利益と考え、部落懇談会及び村民大会を開催し詳しく状況を説明すると共に、村民の意向を徴した結果、村民の総意は県の要請に応える意思のあることを認めた。
 故に従来行なわれてきた町村合併に関する行為のすべてを解消し、本村独自の意思において、明るい豊かな村づくりに邁進することこそ目下の急務と考え、本議案を提案する次第である。

 この決議は村長が提案し、議員の満場一致で可決されたので、これが町村合併の一〇年間の終着駅かと思われた。四十年一月から二月にかけて合体合併派と三分村合併派の幹部が相集い、呉越同舟の形で新たに「愛村同志会」が結成された。この会合では、町村合併が一〇年間に亘って展開され、今になって諸般の事情に照し、合併は取りやめたと平然と村長や議員の席に居すわることは許せないとして、責任者の総辞職を迫る意見が大勢を占めた。二月下旬の品川センターでの会合には、選管事務局を招き、辞職しない場合のリコールの説明をきくなどし、辞職勧告、これに応じない場合はリコール突入の二段戦法となり、蛭田小学校宿直室においてリコールに必要な書類をすべて作成した。しかし、元老や穏健派の人々の意見により、村長選挙及び議員選挙を行なっても、誰がその職に就いても従来両派に分かれて争ってきた有力者であり、単に形式にとらわれるべきでない。一応独立し、狭いながらも豊かな明るい村づくりに村民力を合せるときだとの説得により、村づくりの建設的経費を少しでも増大させるため、次期任期による改選から議員定数(自治法下では二二名)を一六名に、農業委員の選挙定数を一五名から一〇名に、その他の非常勤特別職を原則として従来の二分の一に減少する条例制定等を議会に要求することで落着いた。
 議会は、この意向を卒直に認め、三月十六日の定例議会において議員定数を一六名に農業委員の選挙による委員を一〇名に減少する条例を議員提出により、満場一致で可決した。更に、三月定例会期末の二十八日には、議長・副議長・各種常任委員会委員長及び副委員長の役職員全部の交代を行なった。議長には従来の三分村派の幹部だった谷国夫が就任、副議長には吉成孝一が再選、各常任委員会正副委員長は全部交代という快挙が行なわれた。お互いが心の底に残る感情のしこりはあったが、大同団結する姿を議会自らが範を示し、村のあらゆる遅れを取り戻すべく、村長を中心に執行部と議会が両輪の軸となって明るい豊かな村づくりへ進むことを誓い合ったのである。
 町村合併の必要性はすてられたものでなく、新市町村建設促進法の失効後も広域行政の必要性はむしろ高くなり、昭和四十年三月には「市町村の合併の特例に関する法律」が公布、施行され、今日もこの法律の諸恩恵に浴する機会は本村にもあるのである。本村の合併問題とは別に、昭和三十六年五月には、結核検診の事務の合理化を目指し、那須北全市町村で組合が発足した。ついで同年十月には「し尿処理組合」が発足している。三十八年三月には、日赤病院(大田原市)敷地内に保健予防組合の組織のもとで隔離病舎の共同設置を行ない、発病のないときは日赤病院に使用させ、地域医療の拡充保護に当っている。
 四十年十月にはこの三つの統合が実現し「那須地区保健衛生組合」として新発足し、あわせて「と畜場」を開設し、広域、多様化する需要に応じ、合併した市町でも単独処理することが非効率的である仕事は、「組合」として対応せざるを得ない時代を迎えている。
 四十五年六月には、大田原市・西那須野町・黒羽町・湯津上村及び塩原町で「大田原地区消防組合」が発足し、本村蛭畑にその分遣所が設けられ、水槽付消防自動車一台が常駐している。
 この四十五年には大田原市・西那須野町及び塩原町の合体合併により那須中部の都市づくりが話題となり、本村でも議会協議会に諮り、この合併実現の際には加入を認めてほしい旨を各市町に申込んだ。
 四十八年四月、黒羽町と共同で「ゴミ処理組合」を設立した。四十九年十二月一日には、大田原市・塩原町・西那須野町・黒羽町、そして湯津上村の農業共済組合の合併が実現し、那須中部農業共済組合が発足している。五十年五月一日には、本村内の傘松農業協同組合・東部農業協同組合及び佐良土農業協同組合が合併し、湯津上村農業協同組合が発足し町村合併問題により小川町農業協同組合に加入していた農家の復帰があり、農協の原点にたって躍進を図っている。
 住民の生活圏・社会圏の拡大に伴い、近い将来は黒磯市と那須町のブロック、大田原市・塩原町・西那須野町・黒羽町及び本村を含むブロック広域圏の実現が必要となるであろう。
 村の合併のため費した一〇年余の歳月は、村の発展を若干阻害したが、村民の心の底に流れる愛村の精神はこの遅れを取戻す大きな扶けとなるであろうし、現在そして将来における価値ある経験となって生きるであろう。
 それが十年余の町村合併問題の歴史が後世に残す尊い形なき遺産であると信ずる。