4 明治年間の合併問題の記録

761 ~ 762
 明治廿六年頭初、杉井学時村長の時に、鹿畑、倉骨地区を湯津上村へ合併する問題が起った。思うにこの地区は傘松農場の地区内の故をもって、かかる問題が提起されたのではなかろうか。
 一度議決はされたが、世論は必ずしもこれを歓迎はしなかった。よってこの議決を撤回さすべく、つぎのような意見書の草稿があるが、この問題は遂に実現をみるに至らないで終った。
 町村合併ニ関スル意見書
本年一月金田村ノ内上奥沢鹿畑倉骨ノ四大字を分割シ本村ヘ合併ノ件村会ヘ御諮問ニ相成候所、該字ハ古来ヨリ区画ヲ異ニシ人情風俗モ亦随テ異ナルノミナラス、本村トハ一大原野ヲ隔テ地形自然ニ阻隔シ、日常之交通殊ニ疎迂ナリシ故ニ仮令一旦合併スルモ、到底将来ノ円満ヲ望ムベカラス、且彼ノ四大字ハ戸数人口ニ比シ地□過大ニシテ境域頗ル広濶、加フルニ瘠鹵磽确(せきろぎょうかく)ノ土質ナレバ地価格等ハ極メテ低ク徒ニ村政ノ繁雑ヲ招クノミニシテ村税ノ負担ハ層一層ノ重ヲ加ヘ将来本村ノ不経済ナル事ヲ是認シ満村一致ノ勢ヲ以テ合併ヲ否決セラレタル事ニ有之候
然ルニ去二月中如何ナル感情到来セシニヤ、鹿畑倉骨ノ地勢タル本村ノ西部ニ相接近シ人情職業ヲ一ニシ、公私関係親懇ニシテ離ル可カラザル実情アルヲ以テ合併ノ利ナル事本村西部ノ或ル議員ヨリ建議ニ依ヲ理事者ハ同月十四日村会ヲ開キ審議ニ付セシニ単ニ倉骨ノミハ本村西ノ一隅ニ地勢稍接近シアルト雖モ人情風俗等ニ至リテハ決シテ同様視スル事態ハサルヲ以テ、議会ノ大勢ハ前説ヲ固執シテ非合併ヲ唱ヒラルルモ当日出席議員拾四名ニシテ(但シ二名ノ欠席アリ)合併ヲ可トスルモノハ八名ニ対スル六名ノ少数ヲ以テ建議案ハ遂ニ可決セラレ、已ニ右ニ大字ヲ合併スルノ件建議相成候得共、是レ因ヨリ本村ノ輿論ニ適ハサル決議ナレハ、仮令分合ノ件御允許相成候トモ到底将来ノ円満ハ得テ望ムヘカラス
単ニ円満ヲ望ムヘカラザルノミナラス、村税ノ負担愈々重加シテ本村民ノ不幸之ヨリ甚シキハナキニ至ル事瞭々乎トシテ火ヲ観ルヨリ猶明ナリ、是ヲ以テ本村民ハ斯ノ不幸ヲ未萠ニ除カン事ヲ御願シ、生等惣代トナリ右非合併ノ意見書ヲ捧呈仕候也
        那須郡湯津上村大字  何
明治廿六年四月 日     何之某  印
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(永山正樹家 資料)