第二次農地改革

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しかし、G・H・Qは第一次農地改革が「農民解放令」の趣旨を完全にみたすものとは認めず、そのため小作料金納化以外の措置は実行に移されなかった。その後日本政府はG・H・Qとの接衝のなかで第一次改革の線を固守しようとしたがG・H・Qは地主保有規模の縮少、国家買収方式の採用、改革実施期間の短縮などを要求した。対日理事会における討議(昭和二十一年)でも、これらの点で第一次改革の不徹底性が指摘された。結局、昭和二十一年六月に至って、G・H・Qは対日理事会におけるイギリス案を骨子とした「勧告」を日本政府に発した。
 日本政府もついに屈服し、これに則って同年九月、自作農創設特別措置法案と、農地調整法改正法律案とを国会に提出し、両法案は無修正で同年十月に成立した。
 これに基づく農地の買収・売渡は昭和二十三年中にほぼ終ったが、買収面積は約一七四万町歩、財産税・物納分をも合わせると約一九三万町歩(改革前の小作地面積の約八〇%)に及び、改革前に総耕地面積の四六%に及んでいた小作地面積は、一〇%たらずに激減した。小作料金納化措置をあわせて、長く日本を特徴づけてきた地主的土地所有制は、ここに解体させられたのである。
 以上の経過からも明らかなように、農地改革はまず日本政府によって「上から」の改革として発足したものが、連合国の圧力のもとに、さらに一段と徹底せしめられて、地主的土地所有制をほぼ完全に解体せしめるに至ったのである。それは、そのような改革として不可避的な限界をもつ。地主保有地の残存、林野解放の不徹底、地主の土地取上げの暗黙の許容などがそれを示す。また、農地改革の行われた歴史的段階と環境とは、農地改革は必ずしも日本農業の質的な飛躍の契機たらしめなかった。しかし、それにもかかわらず農地改革は地主的土地所有制を解体させることによって、日本農業の構造に根本的な変化を生ぜしめたのであり、その意味で日本農業の発展における画期的な変革であったといわなければならない。






 湯津上村における農地の買収、売渡し状況は前表の通りである。
土地買収・売渡し状況
買収(在村地主分)
買収年度戸数人員宅地
225053571,201170,2250
23323379,60627,2090
249292119,02975,72430,115.73
25535350,40439,7111,507.12
26171740628,9011,598.39
27225,4267,2050

買収(不在地主分)
買収年度戸数人員宅地
22238240983,715394,611
2339391,078,303149,201
24272719,10622,0109,224.60
25222241,52734,41179.00
2616162,60935,402888.20
27224011,320

売渡し
売渡年度人員宅地
225261,286,919519.525
233211,373,518245.411
24271186,607119.01541,826.92
259392,00174.1221,586.12
261318.402
27812,1199.525