1 農会の変遷

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 農業の改良発達と農業関係者の福利増進を図ることを目的とした農業団体で昭和十八年、戦時の農業団体統合によって農業会の組織へと発展解消した。
 農会は農会法による団体で一般に系統農会といわれ、市町村農会・郡農会・道府県農会・帝国農会と行政区域に分けてくまなく設けられた系統的組織であるが、他方、この法によらず任意に設立されたものに大日本農会がある。普通に農会とは前者をさし、後者は町村に組織をもたない。
 明治三十二年〈農会法〉(法律第一〇三号)の成立によって系統農会設立の第一段階に入るが、農会法制化を主唱した全国農事会は任意法人として農会運動の中心となった。明治四十三年農会法改正により、ようやく帝国農会は設立され、系統農会の十分な体制が作りあげられるところとなった。これに加えて大正十一年、従来の農会法・農会令が廃されて新しく〈農会法〉(大正十一年法律第四〇号)が制定され、経費の強制徴収などを含む公法人としての性質や事業が明確にされた。法制化以前までさかのぼれば、農会は六〇年にあまる歴史をもつが、その間に三段階の性質上の変化をとげている。すなわち第一はほぼ明治三十三年までの段階で、農事研究会的性質が強い。第二は昭和五年前後まで地主的性質の強い段階、第三はそれ以後農業団体的な性質を強くもつ段階。つぎにその概略を記してみよう。
(1) 第一段階 明治維新後、地租改正と殖産興業政策による農業変化の中で、新たな農業の姿を求めるべく、明治十一年前後から各地に農談会(勧農会、共進会など名称は多様)が組織され、町村から郡・府県と明治中期にいたるまでその組織は拡大され、しだいに系統化されてきた。これら農談会は当初は村の精農家、篤農家が中心となって組織した自主的な技術団体で、他地方の農談会との間に技術指導・品種交換・視察などの連絡をとったりして、その活動は活発であったが、当初の農政の中心が特産奨励におかれていたため、系統化の段階にはいたらない(すでに大日本農会はあったがまだ組織力はなかった)。明治二十三年代、地主の農村支配が一般的になるとともに、小作料収入を稲作生産増大によって高めようとする意欲が強くなり、農談会の活動に対する地主の関心が強くなる(この間明治二十四年に農事三法の一つとして農会法案が政府から提案されるが不成立に終る。また明治二十五年京都府農会設立)。

(2) 第二段階 各地に地主会が設けられ、地主層は農民には稲作奨励を、政府には農政運動を推進させる団体として農会の系統的組織化に活発な動きを示すようになり、全国農事会を擁して政府とも部分的には対立しつつ農会法の成立をみた。

(3) 第三段階 大正九年代の自作農創設を背景に、準戦時体制下におかれてゆく農村では、地主的支配はしだいに弱まった。この間、昭和十八年三月には農業関係団体を統合する〈農業団体法〉(昭和十八年法律第四六号)が公布されて、中央農業会・全国農業経済会・農林中央金庫の三本だてに整理され、旧来の農会は廃止され、農業会として再出発した。

 ここに農業会は、町村・府県・全国と完全に統一した機構となり、同時に第二次世界大戦の中で農民を直接掌握しようとする国家権力の下部機構となった。その任務は食糧の増産と、供出におかれていたが、労力・農具・肥料などすべての欠乏の中では結局出血的な供出に力を発揮するよりほかはなかった。
 戦後は、占領軍による農民解放指令によって農業会は全面的に解体され、昭和二十二年〈農業協同組合法〉による農業協同組合が全国市町村に、また指導・販売・購売・信用などのそれぞれを専門とする連合会が府県に設けられ、そして中央に全国指導農業協同組合(昭和二十九年全国農業協同組合中央会となる)、全国販売農業協同組合連合会(全販連)全国購売農業協同組合連合会(全購連)が設けられ、旧農業会のもっていた全機能がここに転移解消したのである。