2 湯津上村農会

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 明治三十二年農会法成立、更に大正十一年新しい農会法が制定され、経費の強制徴収を含む公法人としての性質や事業が明確にされた。
 明治三十四年大字湯津上に役場が新築され、明治三十八年七月湯津上村農会が役場内に置かれた。昭和二年十二月火災により役場が焼失し、昭和五年役場は佐良土に新築移転した。農会も同時に移ったのである。
 湯津上村においては、当初農会長は村長が兼任していたようである。判明している記録によると、明治三十九年、深沢修(助役)、大正十一年、永山英夫、大正十二年、星粂三郎、おそらく杉井学時も就任したものと思われる。昭和二年、吉成三五郎、更に遅沢清六郎、秋本栄三郎と歴代村長が兼任したものと思われる。
 後年郡司環が就任した。郡司環の時に戦事体制に入り、産業組合と農会が一つになった。すなわち、昭和十八年三月農業団体法が公布され、同十九年四月湯津上村農業会となり、会長は増山稲麻村長の兼任となった。
 産業組合は、農業会経済部となり、経済部門を、農会は指導部となって生産の指導部門を担当した。もともと、農会の仕事は農業生産の技術及び、農業経営の指導を任務とした。村農会の上に郡農会があり、更に県農会、帝国農会があり縦に強い系統をもち、個々の農家まで強い指導組織をもつ強固な組織であった。
 県・郡農会には農業技師がおって各町村を指導し、後に村毎に農業技術員が駐在し指導にあたった。
 村内の末端組織として各字毎に農事実行組合が生れ、当該組合を単位として農業指導が行なわれた。日本農業の、行政と結びついた基幹的な指導は、農会によって行なわれてきたのである。
 品種の改良・耕種の改善・増産多収穫の指導・各農作物の立毛および農産物の品評会或は取灰・堆肥の品評会・牛馬による畜力利用による田畑の耕起・中耕・除草等の指導講習、助成金を出してサイロ・灰小屋・堆肥盤の設置等多面に亘った。
 明治三十九年三月、葉煙草耕作の講習会、郡農会からの「馬耕教師を雇入れて郡内農家の指導について」の希望者募集について、農会名を以て各大字区長宛通知文書が残っている。
 後年葉煙草耕作については、葉煙草耕作組合が専属の耕作技術指導員をおいて指導にあたった。
  大正四年度村農会歳入出決算金
歳入  一 金弐百弐拾八円六十二銭五厘   歳入決算高
歳出  一 金弐百円拾八銭五厘       歳出決算高
  歳入出差引  残金弐拾七円九拾四銭也
区長宛の通達文書
 本郡農会ニ於テ馬耕教師ヲ雇入郡内農業者一般ニ教授相成候ニ付テハ講習望ノ者ハ本月廿七日迄テニ当会ニ申出候様当業者一般ニ御通知相成度尤モ講習場所ハ各大字ニテ教授ノ都合モ有之候間可成多数申出候様致シ度此段及通達候也
    明治三十九年三月廿二日  湯津上村農会