これから考えると、本県はかつては他県に見られないほど、文化の先進国であったわけである。間もなく藩学が勃興し――正徳三年(一七一二)壬生藩で学習館が設けられたのが、下野における藩学のこう矢とされる――むしろ全国諸藩に徴しても早かったのである。次いで、享保・寛政・文化・幕末・明治初年に至るまで、烏山学問所をはじめとして、下野国内各地に一〇藩学が設置されたのである。
しかしながら、会津の日新館、水戸の弘道館、萩の明倫館のように、成長力に富んだ発展はみられなかった。だいたい、二、三を除けば家塾と大差なかった。その原因と思われるのは、下野は数々の藩領・天領・神領(日光)等が錯綜して大藩がなく、かつ地理的に江戸に近かったこともあって、江戸へ遊学する者が多かった故であろう。
一方「日本教育史資料」によると、文明年間(一四六九)から元和年間(一六一五)に至る一五〇年間に一八の寺子屋が開かれ、師匠には、神官・僧侶・医者・修験者等各層が当った。
明治四年七月、政府は初めて文部省を置き、大いに文教の振興を図り、五年八月三日(太陽暦にして九月五日)学制を頒布し、九月、小学校則および中学校則を発布した。これは我が国学校教育史上まことに重要なもので、近代教育の出発点は実にこの学制にあったのである。学制はいかなる教育精神をもってこれを実施するかについて、太政官布告第二一四号をもって左のように述べている。
人々自ら其身を立てて其の産(しんだい)を治め其の業(とせい)を昌にして以て其の生(いっしょう)を遂くるゆえんのものは他なし身を修め智(ちえ)を開き才芸(きりようわざ)を長ずるによるなり而して其の身を修め知を開き才芸を長ずるは学(がくもん)にあらざれば能はず是学校の設あるゆえんにして日用常行(ひびのみのおこない)言語書算を始め士官(やくにん)農商百工技芸及法律政治天文医療等に至る迄人の営むところの事学(がくもん)あらざるはなし人能く其の才のあるところに応じ勉励して之に徒事ししかして後初めて生を治め産を興し業を昌にするを得べしされば学問は身を立るの財本(もとで)ともいうべきものにして人たるもの誰か学ばずして可ならんや夫の道路に迷ひ飢餓に陥り家を破り身を喪の徒の如きは畢竟不学よりしてかかる過ちを生ずるなり徒来学校の設ありてより年を歴ること久しといへども或は其の道を得ざるよりして人其方向を誤り学問は士人以上の事とし農工商及婦女子に至っては之を度外におき学問の何物たるを弁ぜず又士人以上の稀に学ぶもの動もすれば国家の為にすと唱へ身を立るの基たるを知らずして或は詞章(ことばのあや)記誦(そらよみ)の末に趨り空理虚談(りくつそらばなし)の途に陥り其の論高尚に似たりといへども之を身に行ひ事に施すこと能ざるもの少からず是すなはち沿襲(しきたり)の習弊にして文明普ねからず才芸の長ぜずして貧乏破産喪家の徒多きゆえんなり是故に人たるものは学ずんばあるべからず之を学ぶに宜しく其の旨を誤るべからず之に依て今般文部省に於て学制を定め追々教則をも改正し布告に及ぶべきにつき自今以後一般の人民華族農工商及婦女子必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す人の父兄たるもの宜しく此意を体認し其の愛育の情を厚くし其の子弟をして必ず学に徒事せしめざるべからざるものなり高上の学に至ては其の人の材能に任かすといへども幼童の子弟は男女の別なく小学に徒事せしめざるものは其の父兄の越度たるべき事
但徒来沿襲(これまでのしきたり)の弊学問は士人以上の事とし国家の為にすと唱うるを以て学費及其の衣食の用に至る迄多く官に依頼し之を給するに非ざれば学ざる事と思ひ一生を自棄するもの少なからず是皆惑へるの甚だしきもの也自今以後此等の弊を改め一般の人民他事を抛ち自ら奮て必ず学に徒事せしむべき様心得べき事
右之通被仰出候条地方官に於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加ヘ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事
明治五年壬申七月 太政官
但徒来沿襲(これまでのしきたり)の弊学問は士人以上の事とし国家の為にすと唱うるを以て学費及其の衣食の用に至る迄多く官に依頼し之を給するに非ざれば学ざる事と思ひ一生を自棄するもの少なからず是皆惑へるの甚だしきもの也自今以後此等の弊を改め一般の人民他事を抛ち自ら奮て必ず学に徒事せしむべき様心得べき事
右之通被仰出候条地方官に於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加ヘ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事
明治五年壬申七月 太政官
学制は小学・中学・大学の四基本段階による教育企画を立てたもので、これを設置するために学区制をとった。
学制、第三章 大学の分別左ノ如シ
第一大区
東京府・神奈川県・埼玉県・入間県・木更津県・足柄県・印旛県・新治県・茨城県・群馬県・栃木県・宇都宮県・山梨県・静岡県
計一府一三県東京府ヲ以テ大学本部トス
右のように我が栃木県は第一大区に属し、以下全国三府七二県を八大区に分別した。さらに中学校、小学校については次の章を設けた。
第五章 一大学区ヲ分チテ三二中区トシ之ヲ中学区ト称ス区毎ニ中学校一所ヲ置ク全国八大区ニテ其数二五六所トス
第六章 一中学区ヲ分チ二一〇小区トシ之ヲ小学区ト称ス区毎ニ小学校一所ヲ置ク一大区ニテ其数六七二〇所全国ニテ五三、七六〇所トス
第七章 中学区以下ノ区分ハ地方官其土地ノ広狭人口ノ疎密ヲ計リ便宜ヲ以テ郡区村市等ニヨリ之ヲ区分スヘシ
本県の中学区は左の五区とした。
第三八番中学区 都賀郡 寒川郡(栃木県)
第三九番中学区 河内郡 芳賀郡(宇都宮県)
第四〇番中学区 塩谷郡 那須郡(宇都宮県)
第四一番中学区 安蘇郡 足利郡 梁田郡(栃木県)
第四二番中学区 新田郡 山田郡 邑楽郡(栃木県)
第五章によると一大学区には三二中学区に止まるはずであるが、本県に四二番まで、できたのは第七章の特例によって東京府から順々にその学区数が増してきたためであろうか。なお、右の郡のうち、都賀郡は明治十一年に上都賀・下都賀に分かれ、寒川郡は明治二十二年廃止となり、梁田郡は明治二十九年に廃止された。新田・山田・邑楽の三郡は明治九年八月群馬県に移された。
小学校の数については、明治七年発行の栃木県報が次のように述べている。
学区
明治六年二月学区ヲ画定ス所管人口六二七、四七五之ヲ五中学区(従第三八至第四二)ニ分チ第三八中学区ヲ二一〇小学区ニ第三九中学区ヲ一九四小学区ニ第四〇中学区及第四一中学区ヲ二一二小学区ニ第四二中学区ヲ一五〇小学区ニ分チ共ニ九四五小学区トス一中学区ノ人口概一〇一、九〇〇余ヨリ一三七、九〇〇余ニ至ル
(注)小学区の合計数に誤りがある。
(注)小学区の合計数に誤りがある。
学制による学区の区分は、あまりに形式的な机上計画であり、ことに小学区ははなはだしく細分され、人口六〇〇人に対して一校の割合となり、第七章の特例があるとしても、その実施には幾多の難点があった。
明治十年の「栃木県年報」には左の記載がある。
学区分合
従来管内中学区ハ分チテ五中学区(自第三八至第四二)トナス然ルニ明治九年八月上野国三郡群馬県ヘ分管ニ依リ第四二中学区ハ該県所轄ニ属スルヲ以テ一中学区ヲ減ジテ現今四中学区ヲ保ス、小学区ノ制度ハ一小学区ヲ建設保存ス可キ目途ナレトモ之ヲ実際ニ徴スルニ人口六〇〇ニシテ未ダ能ク一小学校ヲ維持スル能ハス故ニ人口九〇〇ヲ以テ一小学校トナスノ条款ヲ設ケ明治九年六月中経伺ノ上允許ヲ得テ釐革スル所ノ区分左ノ如シ、第三八中学区内ヲ一六三小学区トシ第三九中学区内ヲ一一八小学区トシ第四〇中学区内ヲ一一六小学区トシ第四一中学区内ヲ九七小学区トシ合計四中学区四九四小学区トス之ヲ従来ノ小学区ニ比較スルニ二九五小学区ヲ減セリ
従来管内中学区ハ分チテ五中学区(自第三八至第四二)トナス然ルニ明治九年八月上野国三郡群馬県ヘ分管ニ依リ第四二中学区ハ該県所轄ニ属スルヲ以テ一中学区ヲ減ジテ現今四中学区ヲ保ス、小学区ノ制度ハ一小学区ヲ建設保存ス可キ目途ナレトモ之ヲ実際ニ徴スルニ人口六〇〇ニシテ未ダ能ク一小学校ヲ維持スル能ハス故ニ人口九〇〇ヲ以テ一小学校トナスノ条款ヲ設ケ明治九年六月中経伺ノ上允許ヲ得テ釐革スル所ノ区分左ノ如シ、第三八中学区内ヲ一六三小学区トシ第三九中学区内ヲ一一八小学区トシ第四〇中学区内ヲ一一六小学区トシ第四一中学区内ヲ九七小学区トシ合計四中学区四九四小学区トス之ヲ従来ノ小学区ニ比較スルニ二九五小学区ヲ減セリ
このような事情は本県ばかりでなく、各県とも共通のものであった。しかし全国をすべて学区に編成して、いかなる僻地にも公立小学校を設けなければならないことを決め、国民全体に学校創設の必要と責任とを感じさせたことは大きな成果であった。これから全国の町村に公立小学校が設立され、津々浦々まで国民の教育が普及するようになった基盤は、実にこの学制にあったのである。